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ISBN 978-4-08-720424-7フリーペーパーの衝撃
稲垣 太郎
集英社 2008-01-22
[集英社新書 424B]

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『出版不況』の時代と言われて久しい。
本や雑誌がかつてほど売れなくなり、老舗出版社や中小書店も次々と倒産し、
手軽に情報を取得できるインターネットの発展も出版界にトドメの一撃をさした。

が、こんな時代でも"ある分野"の出版に関しては飛ぶ鳥を落とす勢いで成長が続いている。
その分野こそが最近やたらと街で目に付くようになった「フリーペーパー」だ。
ターミナルやショッピングモールにはフリーペーパーを積載した夥しい数のラックが設営され、
今やフリーペーパーは現代人の日常生活へ確実に浸透したと存在と言えるだろう。

もちろん一昔前にもフリーペーパーがなかったわけではない。
ただ当時の内容は周辺地域の求人・不動産・飲食店情報などが主体であり、
マス媒体として有料で売り出すには利益的に適さないコンテンツが多かったのも事実である。

ところが最近では今まで有料雑誌のテリトリーだったコンテンツに
無料雑誌が進出しているという質的変化が顕著に見られるのだ。
例えば首都圏で配布されている「R25」の競合雑誌は「SPA!」であると言えるし、
大阪南部で配布されている「NATTS」は内容的にも「Kansai Walker」と被る。
またフリーペーパーの波は情報誌だけでなく文芸誌にまで及んでいて、
伝統ある「早稲田文学」までもが今やフリーペーパーの時代なのだ。

なぜこれほどまでにフリーペーパーが隆盛を極めているのか。
その知られざる秘密を探ったのが今回ご紹介する本書だ。
フリーペーパーは現代社会を論じる上で欠かせないトレンドの一つにも関わらず
適当な書籍が今までなかっただけに、この本が発表された意義はとても大きい。

さて手始めの第一章では『異業種出身の成功者たち』と題して、
「ぱど」「地域新聞」「月刊ぷらざ」のサクセスストーリーが創業者と共に紹介されている。
特徴的なのはいかにもギョーカイジンっぽい人がセレブに起業したわけではなく、
メディアに関してはド素人な異業種出身の創業者が非常に多いことだ。
これは裏返せば「経験がなくても誰だって出版できる」ということでもあり、
第六章『だれでも出せる「紙のブログ」』では高校生が株式会社を設立して、
実際にフリーペーパーを発行するまでのドキュメントも収載されている。

そして私が非常に興味深く感じたのは第五章「日本に『メトロ』が登場する日」だ。
現在日本で発行されているフリーペーパーのほとんどすべては週刊か月刊であり、
あれだけフリーペーパーが乱立している首都圏でさえも肝心の"日刊"が見当たらない。

ところが戸別宅配制度が確立された日本では感覚的に理解しにくいが、
「多くの先進国では、「新聞は無料で読むもの」という常識が定着している」 (p91) のだ。
そこでかつて日本でもニュースを中心に編集された日刊無料誌が発行されたことがある。
鳴り物入りの新規参入となったこの新聞のタイトルは「ヘッドライン・トゥディ」で、
目指したのはスウェーデンから発祥して今や世界中で読まれている『メトロ』の日本版だった。

しかし突然の異端児来襲に新聞業界はかなり冷淡で、脅迫電話までかかってきたという。
通信社は記事提供を拒み、印刷会社も新聞の印刷を拒否し、
駅も売店の売り上げが減るとして場所の提供を許さなかった。
そうなるとヘッドライン・トゥディは必然的に外電記事ばかりの構成とならざるをえず、
通勤客が取りにくい周辺のコンビニなどにラックを置くしか配布方法がない。
これでは浸透するはずもなく、結局たった四ヶ月で日刊紙市場から撤退してしまうことになった。

現在ではフリーペーパーの利益効果が認知され、駅も進んで場所を提供するようになったが、
それでも日本において日刊無料誌が発刊されるにはクリアすべき問題点が数多い。
その一つがジャーナリズムとの整合性で、情報誌とは理念を峻別しなければならない。

「新聞ジャーナリズムという信頼性、信憑性を旗印にした報道分野で、
 受益者から一切お金を取らない無料ビジネスが
 その言論性をどこまで本当に守れるのか」 (p115)

フリーペーパーは読者から一切お金を取らないので収益源は自ずと広告収入に依存してしまう。
既存メディアで言うならば地上波テレビのモデルとほぼ同じと考えればわかりやすい。
ただ地上波テレビとフリーペーパーの広告効果には歴然たる差があることにも着目したい。

著者の定義を借りるならばフリーペーパーは商品の「理解」に貢献するメディアで、
テレビは商品や企業の「印象」に、新聞は「信頼」につながる広告効果がある。
それ故にフリーペーパーがテレビや新聞を駆逐することは理論的に考えるとありえない。
ならば既存のメディア企業もフリーペーパーを生かしていかなければ損ではないか。

「商品情報を消費者に伝えるために、いろいろなメディアを使い分けることで、
 大きな広告効果が期待できる。
 広告媒体として、フリーペーパーが新聞やテレビと共存し、
 相乗効果を発揮する可能性が見えてきた」 (p81)

フリーペーパーのすべてがわかるオススメ本。

ISBN 978-4-7973-4581-0なぜ大人がDSにハマルのか?
細川 敦
ソフトバンク クリエイティブ 2007-12-28
[ソフトバンク新書 060]

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2007年のヒット商品番付で「ニンテンドーDS」が二年連続の横綱に輝いた。

ニンテンドーDSを知らないという人はおそらくいないだろう。
発売後3年足らずで国内の販売台数が2000万台を突破し、
(ファミコンですら10年かかったことを勘案すると驚異的スピードであることがわかる)
ソフトとして発売された「脳トレ」は流行語になるほどの国民的ヒットを記録した。

では何故これほどまでにDSはヒットし、老若男女問わず幅広く受け入れられたのだろうか。
そもそも数年前まではゲームと言えば子どもかオタクの専有物に過ぎなかったはずだ。
それがDSの登場によってゲーマーと一般人を隔てていた壁は脆くも崩れ去り、
今では家族間のコミュニケーションツールとしてゲームが再評価されつつある。

そんなDSの大躍進に隠された謎を分析したのが今回ご紹介するこの本だ。
確信犯的な経営戦略と運命的なパラダイムシフトの両軸が上手く絡み合い、
DSはゲームの枠を超えた「カジュアルPDA」 (p55)として市場に認知され、
携帯電話に比する一つのメディアとして様々な可能性を秘めた媒体へと進化していった。

「DSは、もはや日用品となり、ゲームは一般的な大人の生活に入り込み、
 日常生活の一部になったのだ」 (p12)

本書ではDSが社会現象となるほどまでに成功した理由を大きく3つ挙げて、
(1.背景 2.ユーザーベネフィットの変化とクチコミ効果 3.経営戦略)
ゲームマーケティングのプロならではの独自の視点からアプローチされている。

今でこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの任天堂だが、DSが世に出る前は迷走を続けていた。
ファミコンで得た爆発的なシェアをスーパーファミコンへシフトさせることには成功したものの、
次に出たNINTENDO64はプレイステーションに完敗し、続くゲームキューブも不調に終わり、
このまま飽くなき性能アップ競争に講じていても総合家電のソニーに勝てないのは明白だった。
ならば重厚長大型のゲーム思想から脱却して第三の道を歩むしかないのではないか…
…これがヒットの「背景」であり、以後DSはゲーム業界における従来の常識を次々と覆していくことになる。
(「経営戦略」など他の理由の詳細についてはぜひ本書を手にとって読んでいただきたい)

また本書はただDSに絞ってゲームビジネスを考察しているだけではなく、
第3章「一大産業化したゲームビジネスと苦悩するソフトメーカー」では
ゲームビジネスの抱える問題点とDSがもたらした負の遺産についても言及されている。
門外漢の立場から俯瞰しているとDSはもはや向かうところ敵無しといったようにも思えるのだが、
舵取りを間違えると途端にシェアが自沈してしまうほど脆弱な一面も裏にはあるのだ。

そこで重要となってくるのが第5章「DSがもたらす新ライフスタイルの可能性」である。
先ほどDSを「カジュアルPDA」と称したが、PSPが単なる総合家電であるのに対して、
DSは飽くまでも”ゲームを基盤とした”多機能PDAであることに着目したい。

本格的な機能を搭載しようと思えば、使い方がどうしても複雑なものとなってしまいがちだが、
それではお年寄りや子ども達が使えないし、そもそもカジュアルPDAにそこまでの機能は必要ない。
さらに言えば単に機能が付加されているだけではなく「楽しめる」要素が何よりも大切であり、
情報機器としては異色の「楽しめる」PDAとして、DSは唯一無二な存在感を日増しに強めている。
DSにしか出来ないコミュニケーション・スタイルこそがDSの強みなのだ。

「「DSらしさ」をゲームから拡げていき、日常の暮らしの中に実現していく。
 そこにDSの未来と、多くのビジネスチャンスがある」 (p204)

ニンテンドーDSはゲームボーイの進化形ではない。
言うならばDSは全く新しいエンタテイメントであり、その魔力に世界中の人々が虜になっている。
DSにもっと酔い痴れたいあなたに本書をオススメしたい。

ISBN 978-4-02-273152-42011年7月24日 テレビが突然消える日
岡村 黎明
朝日新聞社 2007-06-30
[朝日新書 52]

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『2011年7月24日』

この日に何が起こるか知らない人のほうが今はもしかしたら少ないのかもしれない。
そう、2011年7月24日は地上波アナログテレビ放送が終了する日であり、
この日を境にテレビはデジタル(地デジ)へと半世紀に一度の大変革を遂げることになるのだ。

今年5月に行われた総務省の調査によると地デジ認知度は9割を超え、
実際に地デジを視聴している人は約3割にも達している。

とは言っても地デジ機器はまだまだ高い。チューナーですら1万や2万では手が届かない。
値段はXデーが近づくにつれ市場原理が働いて徐々に下がってくるとは思うのだが、
果たしてアナログ停波までに普及率を100%にすることは出来るのだろうか。

本書はこの地デジ問題にスポットを当て、様々な角度から地デジの功罪について問うている。
あまり報じられない外国の地デジ事情やデジタル化において障壁となっている日本の特殊事情などが
著者の長年のメディア経験から丁寧に解説されており、地デジ問題についての一通りの知識を得ることが出来る。

本書が提起している問題の中で最も印象的なのが社会的弱者と地デジの問題だ。
意外なことに現在のテレビは高齢者御用達のシルバーメディアと化してしまっているのである。

NHKによるテレビ視聴時間調査では年齢が高くなるにつれてどんどん視聴時間が増えていき、
70歳以上の老人ともなると一日平均5時間以上はテレビを見ているという結果が出た。

理由は簡単だ。老人にとってほぼ唯一の娯楽メディアがテレビだからだ。
逆にパソコンやケータイを自由自在に使いこなす若年層ではテレビ離れが年々著しく加速しており、
現に私も夕食時のNHKニュース7ぐらいしかテレビの電源をONすることがない。
(そのニュース7とてネットでいくらでも代用できるのでテレビである必然性はない)

生活費を切り詰めて年金で暮らしているお年寄りにとって地デジへの出費は相当痛い。
おもいっきりテレビは普通の画質で十分であるし、水戸黄門なんて印籠を見れたらそれで良いではないか。
「デジタル化は国の情報化、IT化、国際化、グローバリゼーションに深くかかわる、根本的政策」 (p135)
とお役人は言うけれども、お年寄りの方々にとっては肩すかしの国策としか思えない。

カネがかかるのは視聴者だけでなく放送局にとっても同じだ。
高齢者が多く住む田舎や山間部は地形が複雑で中継局をいくつも建てなければならず、
現在においても地デジを見れない地域があるほどで、その出費は地方局の財政を圧迫している。
国民全員が一人残らず地デジを見れるように環境を整備するには放送局だけでは無理な事情があるのだ。

セーフティーネットやインフラ整備のための地デジ政策はまだまだ充分とは言えない。
地デジといえば何かと派手なイメージが付きまとうが、こうした地味な問題にも政府はもっと目を向けるべきなのではないか。

さてこの本には私見ながら問題な点もいくつか否めない。
テレビの影響力や存在感を少し過大評価しすぎではないだろうか。
まるで10年前に発刊された紋切り型のメディア論を読んでいるような感覚が神経を走る。

「テレビがなくなると困るというのは、ただニュースが分からなくて困る、といった単純なものではなく、
 社会生活を営んでいく上で、大きな支障が出て来そうな気がするところにある。
 そこにテレビの特別な性質がある」 (p157)

と本文に書かれてあるが、10年前ならまだしも今は別にテレビがなくたって大きな支障が出ることはまずない。
むしろインターネットをやっていないほうが生活面でも大きな支障が出るくらいで、
地デジを本格的に論ずるならば"ネットの脅威"についてもう少しページを割かなければ説得力が出てこない。

またデータ放送や双方向機能などデジタルテレビならでの新機能に期待を寄せているが、
これらの機能は客寄せパンダとなるほどの使える代物ではないではないか。
データ放送を見るくらいならばホームページを見た方が実用性や操作性に優れているし、
双方向機能は所詮"おまけ"程度のオプションであって社会を変革するほどの影響力は持つとは考えがたい。

テレビを独立した対象として捉えるがあまりに全体的に中途半端な内容になってしまっている感があるのは残念だ。
が、逆に非ネットユーザー的な視点からデジタル時代の趨勢が汲み取られていて、読む人にとっては新鮮かもしれない。

地デジで起こっている地殻変動の中身がわかる一冊。

ISBN 978-4-7561-4933-6ネットはテレビをどう呑みこむのか?
歌田 明弘
アスキー 2007-06-26
[アスキー新書 16]

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『放送と通信の融合』が各所で叫ばれるようになって久しい。

10年前のナローバンド全盛時代においては放送と通信の間に明確な壁が可視化できた。
テレビのような鮮明な映像を通信技術が映し出すことは当時不可能であったし、
パソコンもそれほど普及しておらず、何よりもWeb2.0的な考えを持つ者が誰一人としていなかった。
なのでテレビは茶の間の一等席を独占し続けて、我が世の春を謳歌していたのである。

が、ブロードバンドが全国規模で敷設された現代において両者の区別はもはやないに等しい。
光ファイバーはデジタルテレビ並の高精細な映像配信を可能にしてテレビ放送の意義を薄れさせつつあるし、
昔のように人々の意識がテレビ一辺倒に向けられた時代もとっくの昔に終焉を告げている。
GyaoやYouTubeなどといったネットコンテンツが茶の間のテレビから恒常的に視聴できるようになったら、
殿様商売で扇情的な番組をひたすら垂れ流す地上波テレビ局は果たして生き残れるだろうか。

そうなのだ、ネットがテレビを呑みこむ日は刻一刻と迫りつつあるのだ。
本書はネットがテレビをどのようにして呑み込んでいくかの流れを様々な角度から検証し、
『放送と通信の融合』の先にある未来像を描出した意欲作である。

このまま融合が進んでいけばテレビ番組が単なる一つのWebコンテンツに成り下がってしまうことは確実だろう。
動画編集ソフトを用いて個人的に作成した映像と予算数千万のテレビ番組が同じ商品棚に陳列されるのである。
そうなったときに今のテレビ番組は既存の視聴者を繋ぎ止めておくことができるか否か。

グルメ情報やタウン情報は地元が取り上げられている番組を見るはずであろうし、
個々人の趣味嗜好に応じて細分化されたマニアックな番組が次々とWeb上で制作されて
動画表示装置としてのテレビにオンデマンドで映し出すことを可能にすれば、タイムテーブルの意味は全くなくなる。
限りある時間をわけのわからない番組を視聴することに費やすほど人々は暇ではないのだ。

だからこそテレビ局の抵抗は尋常でないほど激しく、放送と通信が融合したらテレビ局は単なる番組制作会社に過ぎなくなる。
しかし皮肉にも既存のビジネスモデルの崩壊は日に日に進行しており、テレビ局も焦燥と迷走を繰り返して出口が掴めない。
この一部始終は第3章にて詳述されているので"改革の矛盾"を理解するためにもぜひ読んでみていただきたい。

さらに深刻なのは広告収益に関するビジネスモデルの変革だろう。
御託宣のように電波で注がれたテレビCMを大多数の人がすでに見ていないという衝撃的な事実が近年明らかになったのだ。
(本文にて著者は調査結果を自分たちに都合良く曲解している電通を徹底的に批判している)

HDDの登場によってCMを完全カットすることがすでに可能となり、
ある調査に寄れば実に半数以上がこのシステムを使ってCMを全く見ていないという。
さらにテレビをリアルタイムで視聴していてもCMになると席を立つ人も少なくなく、
実際にCMを番組と同じようにきちんと視聴している人の割合はもはや一桁に過ぎないのだ。

そうなればテレビを介して数千万円を出して不特定多数に広告を流すよりも、
ネットでピンポイントに広告を出したほうが遥かに有益でコストも圧縮できる。
詳細は第2章で書かれているが、テレビCMの価値がなくなったらテレビ局はいよいよ廃業せねばならない。

さて他には第4章にて政治レベルで放送と通信はどのように扱われているかを詳説していて、
最後の章では《"群衆の叡知"の真実》と題して大衆レベルでどのような影響を与えるかを考察している。

ブログがあれば誰でも評論家になれ、ネット主導で世論がどんどんと形成されていく。
しかし一次情報はほとんどが既存のメディアによる報道に依拠している上に、
日本特有の「長いものには巻かれろ」的な付和雷同ポピュリズムが真実を歪める危険性も出てきた。

ネットはそう遠くない未来にテレビを100%呑み込んでいくだろう。これは間違いない。
技術レベルにおいて私たちにとって非常に恩恵があることは確かなのだけれども、
その一方で政治レベルにおいてネットが全権を掌握する状況は果たして良いことなのだろうか。
衆愚政治が復活して権力の暴走を許し、「いつか来た道」を再び歩んだりはしないだろうか。

ネットを題材にした本はどうしてもビジネスや技術の視点だけで議論が収斂してしまいがちだが、
本書は普段あまり触れられない政治的な問いも提起していて非常に鋭い。故におもしろい。

ネットとテレビの未来を知りたいあなたに必読な一冊。

ISBN 978-4-02-273142-5視聴率の正しい使い方
藤平 芳紀
朝日新聞社 2007-04-30
[朝日新書 42]

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「視聴率」という言葉を知らぬ人はおそらくいないだろう。
社会調査にまつわる数ある数字のうちの一つに過ぎないはずなのだが、
業界関係者でなくともどういう意味なのかが認識されているほど非常に知名度が高く、
日常会話でも「視聴率」という言葉がごくごく普通に飛び出してくるほどだ。

では「視聴率」とは一体どのように測定され、どのような意味を持つのだろうか。
実はこの視聴率には数々の誤解や知られざる秘密というのが隠されているのだけれども、
これが意外と日々視聴率と接している業界関係者にも深くは知られていない。
本書はそんな視聴率の謎を専門的な見地からアプローチを試みた意欲作だ。

視聴率は大きく分けて世帯視聴率と個人視聴率に大別される。
普段テレビや新聞で「視聴率」として発表されるのは世帯視聴率のことで、
関東地方の場合は600のサンプル世帯から毎日算出されている。

しかし視聴率が高いからといって必ずしもその番組の人気が高いというわけではない。
極端な話、誰一人として見ていなくてもテレビさえ付いていれば「見た」ということになるのであり、
このことを論拠として何十年にもわたって「視聴質」論争が繰り広げられてきた。

が、そもそも社会調査には限界というものがある。
いくらなんでも意識までをも数値化させることは困難だ。
テレビ番組の「質」というのを測定するのは現代の科学では限りなく不可能に近く、
そんなことをテレビマンが日夜議論したって事態が改善するはずがないではないか。
ここにメディアによる視聴率批判の一つのウソが内在しているわけだ。

「「視聴率」依存体質から脱却して、「視聴質」を重視しようという考えは、
 "言うは易し"だが、"行うは難し"であり、
 "「率」がダメなら「質」で"、というような短絡的思考で、
 事が解決できるものでは断じてない」 (p149)

また本書ではビデオ・リサーチ独占体制による弊害も次々と指摘している。
21世紀に入ってテレビがアナログからデジタルへと劇的に進化を遂げ、
インターネット・ワンセグ・パブリックビューイングなど視聴形態は多種多様なものへと変化していった。
しかし視聴率は未だに"お茶の間にて家族で視聴したアナログ放送"のみをターゲットとしていて、
王・長嶋が活躍した時代と測定方法が現在もほぼ一緒というのはいかがなものだろうか。

10年前から日本では個人視聴率(ピープル・メーター)調査が鳴り物入りで導入されたものの、
参考程度の数字しか生み出すことができず、広告会社も商材としては取り扱っていない。
(この個人視聴率の測定方法も極めてアナログなやり方で、
 こんな大雑把なやり方がまかり通っているのかと思うと私はある種のショックを受けた)

海外ではPPM(ポータブル・ピープルメーター)を腕時計のように携行しているだけで、
街のテレビやワンセグで番組を見ても視聴率としてカウントされるシステムが実用化されようとしている。
日本だって持ち前のハイテクを駆使すれば技術的には決して不可能というわけではないはずなのに、
どうして日本は視聴率後進国に成り下がって視聴率があらぬ方向へと弄ばれてしまったのだろう。
ここには放送業界、いや放送文化に根ざした構造的な深い病根がある。あるある。あるある。

「業界が一致して調査会社に対して調査精度の向上を求めることは、
 ユーザーとしての当然の権利であり、こうした要請に対応する努力があってこそ、
 調査会社にも正当な評価が下されるのである」 (p189)

デジタル時代を見据えた視聴率のあるべき姿とは。本書を読みながらじっくり考えていきたい。

ISBN 978-4-10-610205-9新聞社 破綻したビジネスモデル
河内 孝
新潮社 2007-03-20
[新潮新書 205]

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毎朝、家のポストには"できたてほやほや"の新聞が届けられる。
これは日本が世界に誇る戸別配達制度の賜物であり、
読売新聞や朝日新聞のような世界に類を見ない超巨大なメディア閥の根幹を支えている。

ではその戸別配達を実現している販売網の仕組みは一体どうなっているのかというと
これがメディアによって全く報道されない非常にグレーな世界なのである。
新聞社内では 「販売は伏魔殿」 (p89) と言われるくらいタブーな領域で
いわゆる「押し紙」の恒常化や形振り構わぬ拡張団の存在など事態は深刻の一途だ。
社会正義を社是に掲げているならば新聞社は早急に事態を正常化させなければならない。

しかし企業に何か不祥事が起きると徹底的に紙面で糾弾する新聞社も
自らのお膝元である"不適切"な惨状にはメス一本も入れることができないのが現実だ。
「戦後六〇年間、日本の新聞業界は自分の手で
 販売を正常化することはできなかった」 (p95)

とあるように現在でも異常な販売の実態が平然とまかり通っている。

本書は元毎日新聞社の幹部が"新聞の危機"を正面から論じ、
新聞という一つのメディアの未来について真剣に考察したリアルな一冊だ。

まず第一章では豊富なデータを図解で示しながら、
新聞が実際にどれだけ危機に瀕しているかという厳然たる事実を読者に明示している。
「そんなに危なかったなんて全然知らなかったよ!」と思わず驚嘆の声を上げてしまうほど
時代遅れな新聞ビジネスモデルはもはや現代では破綻している状態に限りなく近い。

新聞ビジネスモデルを支えているのは強固な『部数至上主義』であり、
部数さえ増えれば広告が増えて収益も上がるとの認識(実際はそう単純には上がらない)があるため、
「1ヶ月無料で良いです」や「ビール券お付けします」などといった無代紙を助長させる行為が現場で横行している。
そんな『部数至上主義』の虚妄と功罪を突いたのが第二章だ。

さて本書一番の見所は第四章の『新聞の再生はあるのか』に書かれた具体的な施策提言である。
このまま改革を怠れば読売新聞と朝日新聞以外は単独で生き残ることが難しい。
(かろうじて日経新聞と有力地方紙は生き残れる?)
となると、紙面は無理だとしてもせめて生産ラインは共有をして効率化を図ってみる必要性が出てくる。
ならば具体的に毎日新聞と東京新聞と産経新聞が業務提携をして、
既存の販売店網を駆使した"第三の巨大新聞グループ"を作ってみてはどうだろうか--
実現するかどうかの現実性はともかくとして、
こうしたフレキシブルな改革案は新聞界からもっと聞こえてきてもいいはずだ。

他にも本書ではテレビやインターネットとの関係についてメディア論的な考察も交えている。
新聞は特集や論説以外の記事は「記者クラブ」の存在もあってかほとんど同じなので、
いっそのこと記事は通信社に任せて新聞社は論壇に徹してはいかがか--
本書に書かれた筆者の数々のアグレッシブな新聞改革案には、
中身は厳しいながらも新聞への「愛」が感じられ、共鳴するのはきっと私だけではないだろう。

新聞はネット時代の今だからこそ必要な国民的媒体だ。
私も新聞は好きだし、新聞の衰退していく様子をこの目で見たくはない。
そのためにも新聞関係者は今こそぬるま湯から立ち上がらなければならない。

新聞について深く考えてみたい人のために捧ぐ一冊。

ISBN 978-4-00-430947-5NHK-問われる公共放送-
松田 浩
岩波書店 2005-05-20
[岩波新書 新赤版947]

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今、政府の規制改革・民間開放推進会議では
NHK受信料制度の見直しが論題に上がっている。

一連の不祥事によって不払い世帯が激増し、
受信料の「契約義務制」の制度そのものも色褪せてきて、
NHKの経営や存在自体を直撃するようになってきている。

一人暮らしをし始めたとき、毎月必ず来訪してくる人がいた。
NHKの受信料を徴収する通称"フローラルスタッフ"だ。

最初の3ヶ月間はテレビそのものを持っていなかったので、
「テレビは家にありません」とスタッフに伝えて帰ってもらっていたのだが、
テレビを所有してからはその言い訳が通用しなくなり、
たまたまテレビをつけているときにスタッフが来訪したこともあって、
渋々と払うことを決意した。
ちなみに学生の場合は4ヶ月の免除期間があるそうだ。

「みんな払ってるから払った」わけでは決してない。
私は普段テレビ自体をほとんど見ることがなく、
家で食事をしているときにBGVとしてスイッチを入れている程度なのだが、
その時のチャンネルはいつもNHKであり、
それなりの義理をいつも肌身に感じているからだ。

何か大事件・大事故が起こった場合には
無意識的にNHKにチャンネルを合わせているし、
教養番組のクオリティも民放と比べて突出していると実感している。
「これからも信憑性のある報道をしてほしい」
「もっともっと含蓄溢れる番組を作って欲しい」
そういった"期待"を込めて学生の自分にとって決して安くはないお金を
いわば"投資"としてNHKに払ったわけである。

NHKの受信料は視聴料ではない。
テレビを持っていればNHKを受信できる環境が整うというわけで、
放送法によって受信料の支払い義務が発生する。
しかし払わなくても罰則規定は存在しないし、
NHKが見られなくなることも決してない。

今までは日本特有の"世間の眼"システムによって
こういった曖昧模糊なシステムでも一定の受信料収入は確保され、
不払い世帯の存在が経営を直撃することも考えられなかった。

が、相次ぐNHK幹部の不祥事により不払い世帯が急増し、
長らく屋台骨を支えていた受信料制度の根幹が今揺らごうとしている。

ならば今の時代に合うように法を整備して有料化にしてしまえばよいではないか。
英国のBBCだって「支払い義務制」を敷いていて不払いには罰金が科せられ、
しかも日本より高い受信料を視聴者に強いている。

しかし本書を読めばこれがいかに愚策であるかがよくわかるだろう。
単に経営面から刷新したとしても報道機関としてのNHKは何ら変わらない。

本書では過去にNHKがいかに政府・与党からの圧力を受けてきて、
「公共放送」ではなく「準国営放送」として権力に対する監視を結果的に放棄し、
言論機関として限りなく"死"に等しい状態に陥ってしまった現状を暴き出している。

災害情報や歴史・自然・文化・芸術などの
直接利害に抵触しない当たり障りのない報道においては
確かにNHKは素晴らしい番組を数多く制作してきた。

しかし政治や経済といった複雑な利害がリアルに絡み合う
時事問題に関しては拍子抜けするくらいにトーンダウンしてしまう。
「ジャーナリズムの本質は「インデペンデント」(自立・独立・不羈)」 (p91)
という理念が決定的にNHKには抜けているからだ。

この点に関して本書では同じ公共放送の英国・BBCとの比較をしている。
BBCはイラク戦争時にその大義をめぐって政府と鋭く対立し、
言論の独立・権力からの干渉を死守した。
さらには「イラク戦争の報道に関するガイドライン」を策定し、
国家に媚びないジャーナリズム機関としての態度を鮮明にした。

それに比べてNHKはどうだろうか。
イラク戦争への反戦集会はニュースで一切流さず、
単に政府の情報を垂れ流しているだけという
もはやジャーナリズムを捨てたとしか言いようのない
病巣に侵食された言論機関の姿が浮かび上がってきた。

BBCのような中立的な報道を行うと、
政府・与党から「偏向報道」として糾弾され、
実際に2003年に放送予定だったイラク戦争の真実を伝えるドキュメンタリーは
圧力によって放送中止にされている。

もちろんBBCのようにポリシーや説明責任なんてこれっぽっちもない。
それどころかNHKは権力とべったりくっついて
与党翼賛放送局と化してしまった。

「「編集権」は「人事権」と一体だからこそ、
 オールマイティーとして威力をふるう。
 だが、そのような力による支配が、
 いかに職場から民主主義と自由闊達な空気を失わせ、
 人々の間に閉塞状況とモラルの退廃を生み出していったか」 (p180)

NHKの番組改編問題に関連して
3月15日に行われた衆議院総務委員会で
就任したばかりの橋本元一会長はこのように答弁した。

「お伺いを立てるやり方でなければ、事前説明自体は問題ない」

1989年に起こった坂本堤弁護士一家殺害事件では
TBSがオウム真理教に"事前説明"としてVTRを見せ、
そのことが結果として教団幹部による一家殺害へとつながっていった。

「取材源の秘匿」というのはジャーナリズムの基本中の基本で、
自ら取材源をバラして相手方に伝えるのは自殺行為に等しい。
だからこそTBSは1996年に社会的に激しく非難を浴びたのだ。

そんな基本中の基本を国政の場で堂々と否定する
NHKの会長にジャーナリズムを一任するわけにはいかない。
こんな国策推進放送局だったら
お金を払ってまでも見る必要は全くないといわざるを得ない。

幹部の顔を変えれば済む問題でもないし、
そう簡単に組織の膿を出し切れるとも考えがたい。
またNHKを取り巻く放送法も制定から半世紀が経ち、
時代との乖離も目立ってきた。

NHKは"公共放送"であって"国営放送"ではない。
だからこそ求められている"公共放送"の姿とは一体何なのか。
そして受信料制度は本当に必要なのか否か。

混沌とした情勢を呈してきたからこそ
国民レベルで"公共放送"の青写真を構築していきたいものだ。

ISBN 978-4-08-720275-5『噂の眞相』25年戦記
岡留 安則
集英社 2005-01-19
[集英社新書 275B]


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『噂の眞相』という雑誌をご存知だろうか。
政治・社会問題から芸能・風俗まで幅広い分野における
タブーに果敢に挑み、反権力のスタンスを徹底的に貫いた希有の雑誌だ。

月刊総合誌では『文藝春秋』に次いで2位の売上を誇り、
経営も黒字だったものの2004年3月に惜しまれつつ休刊した。
そんな反権威雑誌の編集長でもある著者が25年の編集生活を回顧し、
日本の言論を取り巻く現状を憂いたのが本書である。

日本国憲法第21条では言論の自由を保障されているはずなのだが、
この国には暗黙の了解的なタブーが実に多い。
代表的なのは皇室における菊タブー、検察、裁判所などの権力タブー、
宗教タブー、裏社会タブーであり、ジャーナリズムは自らの身を案じてか
これらのタブーにはあまり積極的に触れたがらない。

しかし『噂の眞相』は違った。新聞や週刊誌では掲載不可能な記事を
文字通りタブーなしでどんどん掲載し、
日本の言論の限界にまで挑戦し続けた。

その内容の過激さから右翼団体に襲撃され、政治家からの訴訟も相次ぎ、
広告主まで去っていってしまうといった事態も発生するが、
『噂の眞相』はスキャンダル・ジャーナリズムを25年間追及し続けた。

大新聞は記者クラブを組織しているせいか
政治家や検察や裁判官などには驚くほど甘い。
下手な記事を書くと新聞の生命線である"情報"の提供が
途絶えてしまう危険性があるからだ。

では週刊誌はどうかというと記者クラブのしがらみはないものの、
広告主の大会社や出版社が抱える作家のスキャンダルは書けない。
駅売りタブロイド紙も同じような宿命にある。

となると真実を追い求めるジャーナリズムはこの国には存在しないのか。
本書ではジャーナリズムを巡る泥臭い現状が生々しく書かれている。
無敵の権力をもつ検察のトップが姑息な手段で裁判を引き伸ばし、
裁判官もグルとなっていた訴訟エピソードには行き場の無い憤りを覚える。

折りしもメディア規制を織り込んだ人権擁護法案が
今国会に提出されようとしている時期だ。
言論の自由がなくなってしまうこの危機に
我々は断固として立ち向かわなければならない。
そして言論の自由が人間の社会的機能としていかに重要であるかという
国民的議論を巻き起こさないとこの国のジャーナリズムは死んでしまう。

最後に編集長のジャーナリズム観を本書から引用したい。

「メディアは常に権力や権威に対して疑問をもち、
 市民や読者の知る権利の代行機関として
 社会的なチェック機能を果たすということに尽きる。
 そこには、言論・表現の自由という憲法で保障された
 メディアの社会的機能が健全に作用しないと、
 国家も社会も不正や腐敗がはびこってしまう
 という歴史認識が前提としてなければならない。
 それは言論の自由なきファシズム国家のケースを想起すれば
 誰しも理解できるはずである」 (p196)

『噂の眞相』が投げかけた課題は我々にとってあまりにも大きい。

2008年4月

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