法律学の最近のブログ記事

ISBN 978-4-532-11048-2個人情報保護法の知識
岡村 久道
日本経済新聞社 2005-02-15
[日経文庫 D26]

by G-Tools


「○○社が△万件の個人情報を流出」---

個人情報保護法が施行されて2年半、個人情報の流出は一向に止まる気配がない。
DVD一枚あれば誰しもが天文学的な個人情報を保有できる現代社会においては、
些細なヒューマン・エラーが企業ブランドを瀕死の状態へと追い込む。
だからこそ個人情報保護法の遵守は企業にとって何よりも大切な生命線なのだ。

しかし一方でまだまだ周知が徹底されていない面も否めない。
例えば法令施行後に担任がクラス名簿を作らないという過剰反応が各所で起きているが、
基本的に個人情報保護法は5000件以上の個人情報を保有している事業者を対象としたものなので、
クラス担任が氏名・住所・電話番号などを過剰に保護することは法的に何の意味もない。

そんな誤解も多い個人情報保護法とは一体どういった法律なのだろうか。
本書は個人情報保護法を理解する上で必須の概説本だ。
"入門書"と位置づけられているもののなかなか骨のある内容で、
法律制定までのあゆみから条文ずつの丁寧な解説まで中身がびっしりと盛り込まれている。
企業人はもちろんのことそうでない人も現代を生きるための教養として読んでおきたい一冊だ。

本書では個人情報保護法を以下のように定義している。

「個人情報を取り扱う際のルールを定めることによって、
 本人の権利利益が侵害されることを未然に防止する役割を営む法律」 (p34)

この法律の制定の発端となったのは1999年の住民基本台帳法改正のときだ。
今の安倍首相以上に重要法案を大量かつ強行的に成立させた小渕首相(当時)が
国民総背番号制を完全なものにするためにも個人情報保護法の制定は不可欠という見解を示し、
法案化がスタートした(実際に法案が国会に提出されたのは2001年のこと)。

しかし当時の個人情報保護法の礎となった概念は政治色が極めて強く、
メディアでは"マスコミ規制法"として話題になり、全新聞社が激しく反発をしていた。
政治家や官僚の個人情報が保護されては事実上スキャンダルを報道できなくなり、
また取得の経緯まで制限されてしまうとなると権力の暴走を手放しに許してしまう結果となる。
つまり一般市民とは直接的に関係のないところで個人情報保護法は議論され続けてきたのだ。
(結局マスコミは個人情報保護法の適用除外となった)

ところが情報技術の進展により光ファイバーや次世代DVDが日常生活に登場し始めると、
誰もが被害者、誰もが加害者となる個人情報高リスク社会が到来してきた。
そこで今度は個人情報に対する国民の危機管理意識が徐々に高まってゆくこととなる。
2005年4月の施行時には"権力vsメディア"というよりも"企業vs国民"といったカタチで
個人情報保護法が私たちの生活にやってきたのだ。

本書を読むと個人情報を扱うに際して非常に細かなルールが企業に課せられていることに気付く。
これにより企業にとって個人情報とは何が何でも流出させてはならない存在として認識されるわけだが、
それが度を超してしまうと今度は逆に誤った権利意識が市民側に根付く危険性が出てきてしまう。

公開すべき情報があるというのを私たちは忘れていないだろうか。

私は住民基本台帳に記されているいわゆる4情報(氏名・性別・生年月日・住所)は
社会に広く公開されるべきだと思っている。故に住基ネットに対しては賛成の立場だ。
※住民基本台帳は昨年から原則非公開となっている。

これらの情報は私たちが社会的コミュニケーションを円滑に営む上で必要不可欠であり、
個々人のエゴでむやみに秘匿されてしまうと社会機能が麻痺してしまう恐れがある。
プライバシー保護は厳重に求められて然るべきだが、「公」なしで「個」を存立させることは不可能だ。
(もちろん「個」あっての「公」ということも忘れてはならない)

基本情報すらわからない透明な存在同士がお互いに不信感を醸成し、
社会の目を失った「恥」のない匿名社会は必然的にモラル低下を招いていく。

保護されるべき情報と公開されるべき情報。
個人情報保護法が制定された今だからこそ個人情報の意味を深く咀嚼し、
win-winな関係になるようにこの法律を生かしていきたいところだ。

個人情報保護法について深く理解できる一冊。

ISBN 978-4-00-430951-2憲法九条の戦後史
田中 伸尚
岩波書店 2005-06-21
[岩波新書 新赤版951]

by G-Tools


『1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
   国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』
『2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。』

これは非常に有名な日本国憲法第九条の条文だ。
「九条」とあればOS劇場ではなく平和憲法を誰もがイメージするように
今ではすっかり日本人のDNAに刻み込まれた感がある。

その憲法が近年、論争の的となっている。
改憲、護憲、加憲、論憲、創憲、廃憲...
どの主張もそれなりの言い分があるわけだが、
ここで九条の歴史を改めて振り返ってみようというのが本書だ。

本書では日本国憲法が施行されて以来、
九条がどんな運命を辿ってどんな形で国民と共に歩んできたかを
当時の新聞記事を基にアンソロジー的に編纂している。
言うならば憲法九条の自叙伝みたいなものだ。

憲法についての書物というのは高度な論理が展開される学術本か
センセーショナルに訴えかける大衆本のどちらかに大別されるのだが、
本書は教科書的に事実が淡々と記述されており、
意外に見過ごしていた基礎知識を再確認できる点で有用であるといえよう。

印象に残ったのはエピローグで語られる非暴力平和隊(NP)の存在だ。
世界を見渡してみると特に中東地域では未だに紛争が絶えない。
今のイラク戦争の惨状が実によく物語っているのだが、
民族や宗教、貧困などの構造的な問題に根ざした紛争を
軍事力で抑圧するのは逆効果でしかない。

「武力による平和」はもう過去の遺物なのだ。

ではどうすれば良いのか。ここで九条の精神が生きてくるのである。
「積極的に平和を創る」。つまり非暴力で紛争に介入し、
非暴力で平和な環境を整備するという汗を流す平和活動だ。
ただ戦争反対とシュプレヒコールをあげる消極的な平和活動とは違う。

世界の中心で、平和を叫ぶ---決して非現実的な夢物語ではない。
こういった非暴力的手段による紛争解決は世界のNGOの潮流になりつつある。
なのになぜ国家は何度失敗してもこれほどまでに軍事を過信するのだろうか。

「国民国家の装置である憲法の中にありながら、
 九条は国家を超える可能性と豊饒さを持っている」 (p245)

現実に法を合わせるのではなく法に現実を合わせていかないと
文明は発展していかないし、同じ悲劇を繰り返すだけだ。

九条の在り方について真剣に考えてみたくなる一作。

ISBN 978-4-08-720294-6著作権とは何か―文化と創造のゆくえ
福井 健策
集英社 2005-05-22
[集英社新書 294A]

by G-Tools


我が国が法治国家であることは誰も疑う余地はない。
法律とは社会生活を営んでいく上で
人々が守らなければならない最低限のルールであり、
法律を犯せば「法」によって制裁される運命に人は身を浸している。

しかし数ある「法」の中でおそらく大多数の人が
触法しているのではないかと思える法律がある。
それこそが著作権に関する規定を定めた著作権法だ。

私は音楽を聴くとき、CDコンポを用いてではなく、
iTunesというソフトを用いてパソコンからいつも聴いているのだが、
特に問題意識を持つことなく何気に行っているこの行為自体が
著作権法に照らし合わせてみると実は法に抵触している。

最近の音楽CDの注意書きには次のような但し書きがある。

「ネットワーク等を通じてこのCDに収録された音を
 送信できる状態にすることは、著作権法で禁じられています。」

現実問題として私のPCに入っている音楽ファイルは
送信しようと思えば数秒後でもできる状態にあるのだが、
送信する意思など全く持っていない私は果たして犯罪者なのだろうか。

外部から閉ざされた世界であるCDコンポでなければ
音楽を楽しむことができないとなると、
それは実に前近代的かつ閉鎖的な考え方であり、
文明の発展を阻害しているとしか言いようがない。

このように著作権法はネット社会が発展した現代において、
四方八方から矛盾が噴出しており、国民的議論を据えて
著作権のあり方を構築することは今や喫緊の課題でもある。

本書は著作権を理解するための全体像や
直面している矛盾点を敬体でわかりやすく綴られているのが特徴だ。

アイディアに著作権はない。
勝手に続編を作っても著作権侵害にはならない。
MDには「私的録音録画保証金制度」によって
最初から著作権料が源泉徴収されている…など
知っているようで知らない著作権の性質にも数多く触れられている。

そして何よりおもしろいのは「パロディ」に関する考察だ。
俗にいう「パロディ」は元の作品に手を加えて、
それを別の作品に変えてしまう行為のことを指すが、
権利概念を広義に捉えれば「パロディ」は
元の作品の著作権を侵害していると言われても仕方があるまい。

だが「パロディ」は決して「パクリ」ではない。
その性質上、元ネタがわかっていないと
純粋に「パロディ」を楽しむことはできないし、
元ネタ以上に「パロディ」が芸術的評価を受けた例だって世界にはある。

日本における「パロディ」をめぐる現況は厳しく、
「パロディ」を違法だとする判決が次々に司法から出されている。
しかしそういった場合"文化と創造"を守るはずの著作権が
逆に"文化と創造"を押し殺してしまうという矛盾が
発生することにも繋がりかねない。

「仮に著作権が、芸術文化を育む土壌を育てるべく
 存在しているのだとしたら、
 日本においてパロディが置かれている矛盾的状況は、
 早い段階で解決がはかられるべきではないでしょうか」 (p160)

と著者もこの問題に対して苦言を呈している。

著作権は非常にデリケートな権利だ。
境界線も実に曖昧で、著作権の存在自体に異議を唱える人もいる。
ひょっとしたら"著作権解体"も近い将来現実になるかもしれない。

私たちの身近に存在している権利だからこそ、
せめて著作権の基本だけは知っておきたい。
だからこそ私はこの一冊を薦めたい。

ISBN 978-4-10-610103-8司法のしゃべりすぎ
井上 薫
新潮社 2005-02-20
[新潮新書 103]

by G-Tools


「判決の理由欄に余計なこと(蛇足)は書くな」という斬新な裁判論を世に乞う一冊。

判決には主文を導く理由欄というのがあるのだが、
中には理由と呼ぶに値しないものまで理由欄に平然と記載されており、
そのことが裁判において様々な弊害を起こしている、
という厳然たる事実を著者は明晰に指摘している。

理由と呼ぶに値しない理由って一体どんな理由なのだろうか。
その前にそもそも理由の蛇足ってなんだろう。
著者は蛇足について次のように定義している。

「蛇足とは理由ではなく、元来、理由欄に書くことすら
 許されない判断ないし文章である。(中略)
 蛇足は、その存在自体、理論的な矛盾の上にあり、
 裁判所の非論理的思考の産物である」 (p124)

「蛇足を加えることは、司法の民主的コントロールを離脱し、
 国民主権の原理を否定する意味がある」 (p138)

憲法第76条にもあるように裁判官は法律に基づいて裁判をするのであり、
私見に基づいて裁判されたのではたまったもんじゃない。

法律に基づいて判決を下すわけだから、
その判決には当然の如く万人が納得できる
普遍的な「論理」が埋められていなければならない。

純粋な法理論は厳格な論理性を要求する。
そこにはロジック以外の見解が入る余地は全くなく、
入ったとしても本筋とは逸れるわけだからそれは謬見と解されてしまう。
要するに論理的に理由と呼べないから蛇足となるわけだ。

しかし裁判をこんなに機械的に処理していいものなのだろうか。
これならば極端な話、裁判官は内閣法制局で既存の法体系を
日々解析し続ける法務官僚がやればいいではないか。
機械的に事件と法律を論理的に照合するわけだから、
別に司法が独立していなくたって、その職務は果たすことが出来る。

実際にこの目で被疑者の挙動や言動を確かめ、
時には「情」というものにも耳を傾け、
そういった要素を法的に加味しながら法律に即して裁断していく。
それこそが国民と共に歩む裁判官像であり、
ただ盲目に法律や判例を追いかけていても
立ち塞がる真実が浮かび上がってくるのか、私には疑問だ。

「統治行為論」やら「プログラム規定」などという
誠に便利な法律用語に逃げて、明確な憲法判断を避け続けている
現代における「しゃべらない」司法の現状。

憲法判断はまさにこの書でいう「蛇足」になるのかもしれないが、
そういった「蛇足」が世の中を変えてきたというのも事実であり、
立法・行政への「干渉」というよりも
「干渉」とは違う磁場での問題ではないかと私は感じる。

著者が提言した「理由欄の蛇足」という概念は
確かに盲点ではあり、もっと表に出ても良いテーマだと思っている。

しかし法律に素人な私にもう少し説得力のあるデータが欲しかった。
蛇足が付く割合は具体的に全体のどれくらいを占めるのか。
海外の裁判での蛇足事情はどうなのか…

裁判について、法律について、
いろんな意味で様々な思索を巡らせてしまう一冊だ。

2008年6月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のブログ記事

最近のコメント

Creative Commons License
このブログのライセンスは クリエイティブ・コモンズライセンス.
Powered by Movable Type