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ISBN 978-4-02-273177-7ロストジェネレーションの逆襲
朝日新聞ロスジェネ取材班
朝日新聞社 2007-10-30
[朝日新書 77]

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今年の参議院選挙では民主党が過半数の議席を獲得するほどの大躍進を遂げたが、
そのキャスティングボードを握ったのが『ロストジェネレーション』の存在だった。

『ロストジェネレーション』とは朝日新聞が命名した新しい世代概念で、
バブル崩壊後の就職”超”氷河期に社会へ飛び出し、
格差社会や非正規雇用などに代表される”失われた10年”によって
辛酸を舐め続けた現在25~35歳の世代のことを指す。

団塊の世代のようにヘルメットをかぶって学生運動するほどの気力はないし、
特定のイデオロギーにも支配されず、伝統的な価値観が絶対だとも思わない。
だけど不安だ。とにかく不安だ。そもそも「夢」というのはこの世にあるのか。
あまりにもモヤモヤしすぎていて未来が全く見えず路頭に迷う若者たち--

そんな『ロスジェネ』に対して今まで政治はあまりにも放置プレイをしすぎていた。
利権に雁字搦めにされた政策は若者を都合の良いよう搾取した後に切り捨て、
若者を熱狂の渦に巻き込んだ小泉内閣が盲信した新自由主義的な構造改革も、
一番改革の痛みが直撃したのは誰よりも小泉を支持していた若者だった。

『ロスジェネ』はそんな非情な仕打ちに耐えた。しかしもう黙っていることはできない。
”オレたちだって政治参加したいんだ””日本をめちゃくちゃにするな”
マグマが火口付近にまで噴き上がり、ロストジェネレーションの逆襲がついに始まったのである--
本書はその逆襲が今どんな場所でどのように起こっているのかを取材・分析した気鋭の一冊だ。

参院選の前に行われた今年4月の統一地方選挙では、
全国各地で『ロスジェネ』世代の議員が相次いで立候補し、
次々と議席をモノにして、政界に大きな衝撃を与えたのは記憶に新しい。

今まで政治家になろうと思えば、いわゆる三バン(地盤・看板・鞄)がなければ不可能だった。
親の代から地盤を受け継いだ二世・三世議員や、知名度抜群のタレント議員や、
強力なバックを持つ利権屋でなければ当選できない”透明な参入障壁”があったのだ。

ところが最近ではその構図が見事に崩れ去り、
誰でも政治家になれる時代がついに到来することとなる(p137以降の分析が大変興味深い)。
大学構内を歩いていると必ず一つはビラがある「議員インターンシップ」はそのタネの一つで、
本書では議員インターンシップの仕掛け人や、インターンシップを経験して政治に目覚め、
実際に地方議会の議員に当選した人たちのドキュメントが収載されている。

昔のように集団を形成して過激に政治を変革していくのではなく、
独立した個人が自然発生的にネットワークを形成し、じわりじわりと政治に変革を迫ってゆく--
インターネットはまさに現代型の政治運動そのものであり、
ノンポリと揶揄される若者たちは学生運動とは別のカタチで政治に盾を突きつけていた。
そんな『ロスジェネ』に戸惑う政党の姿も本書の中では映し出されている。

若者と政治との距離を劇的に縮めさせたのは何と言っても小泉内閣の功績だろう。
小泉のワンフレーズ・ポリティクスや敵味方をはっきり峻別する政治手法は
そのわかりやすさ故に今まで政治に興味がなかった人をも小泉劇場へと取り込んでいった。

2005年の総選挙で自民党が歴史的大勝をした要因は紛れもなく『ロスジェネ』で、
あれから2年を経て改めて識者が考察したインタビューが本書に収載されているのだが、
読んでいると小泉とその後の安倍がいかに対称的であったかが浮かび上がってきておもしろい。

”利権をぶっ壊す”郵政民営化というのは若者たちにとっては非情に心地よかった。
別に自分たちは利権とは関係ないし、既得権益を打ち砕くことは希望の光と感じられたからだ。
「若者が政治と思ってみているものは完全にバーチャルのほう」 (p220) だったのである。

なので嵐のように去っていった小泉”後”、若者たちは構造改革の負の遺産に苦しめられた。
今まで自分たちが熱狂していた政治は所詮バーチャルにすぎないと初めて気付いたのだ。
そこで登場したのがご存知”権力の頂点”安倍首相だったのだが、
安倍は『ロスジェネ』の真意を完全に汲み間違え、致命的なKYをしてしまう。

だいたい明日の生活すら苦しくて、何とかして欲しいと政府に懇願する人が多いのに
憲法や国防を勇ましく語って争点にしても、そもそもリアリティがないではないか。
「だから何?」「どうせお前らだけがいい思いするんだろ」「それよりも仕事くれ」の世界なのだ。
「小泉さんへの支持を右翼的な方向だと勘違いしていたのだろうか、
 安倍さんは方向を見誤ったと言わざるをえない」 (p178)

さらに危機管理能力のなさやリーダーシップの欠如も相まって
小泉を熱狂的に支持した『ロスジェネ』は安倍に露骨に拒否反応を示し、
それが参院選の自民大敗へと繋がっていった。『ロスジェネ』をナメることはもう出来ない。
そして総選挙、ついに日本は……へなっていくのか??

ロストジェネレーションは様々な側面から考察することが出来るのだけれども、
本書では政治的な側面に絞って若者たちの実情をジャーナリスティックに伝えている。
政治に興味を持つ『ロスジェネ』なあなたも、そうでない『ロスジェネ』なあなたも、
来るべき総選挙を前にぜひ読んでほしい一冊だ。

ISBN 978-4-00-431081-5集団的自衛権とは何か
豊下 楢彦
岩波書店 2007-07-20
[岩波新書 新赤版1081]

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今や違う意味で自民党をぶっ壊そうとしている安倍首相だが、
参議院選挙の時に幾度となく連呼していたフレーズをみなさんは覚えているだろうか。

そう、『戦後レジームからの脱却』である。

"戦後レジーム"の象徴的存在である日本国憲法や戦後民主主義から脱却して、
集団的自衛権を行使できるようにした上で日本を「美しい国」へ変えていくというのが首相の持論だ。
ではその「集団的自衛権」とは一体何なんだとなってくるとなかなか説明が難しい。
事実、NHKの調査によると半数もの日本人が集団的自衛権の概念を知らない。
(NHK総合『日本の、これから~考えてみませんか?憲法9条』 2007.8.15放送分より)

本書はそんな集団的自衛権についてコンパクトにまとめられた良書で、
論壇を渦巻く扇情的な議論に一石を投ずる学術的見地に立脚した提言は非常に興味深い。

集団的自衛権とは同盟国への攻撃を自国への攻撃と見なして同盟国と共に防衛を行う権利のことで、
日本の場合、憲法九条の下での集団的自衛権は認められていない。

しかし国連憲章51条では「固有の権利としての集団的自衛権」の行使を認めており、
首相はそこに依拠して集団的自衛権を行使できるのは当然でないかと主張している。
が、そもそもこの51条での「固有の権利」とはいわゆる「自然権」ではないのである。
本書は冒頭から国連憲章51条の存在と制定までの歴史的経緯に着目しており、
憲章51条があるから日本も集団的自衛権を持ち得るといった論理が
いかに誤った認識であるかを実証している箇所は実に鋭い。

また首相や改憲派は「米国が日本を守るのに、日本が米国を守ることが出来ないのはおかしい」と断じて、
米国と真に対等なパートナーシップを築くためにも集団的自衛権の行使は必要であると常々主張している。

この論理には実質的に自衛隊が米軍基地を防衛しているという現実が無視されており、
米国の安全に寄与している沖縄の存在が完全に忘れ去られてしまっているのが業腹だが、
冷静に考えてみるとこれも実にCrazyな理論であることを本書は指摘している。

「安倍が憲法改正や集団的自衛権の行使を「対等性」とか「双務性」といったタームで
 位置づけているのに対し、米国は「目上のパートナー」として日本をそのコントロール下におきつつ、
 その「軍事貢献」を最大限に活用しようとしているのである」 (p114)

首相は軍事的に米国と対等になろうと躍起だが、肝心の米国はそんなことは全く思っていない。
むしろ対等になってもらっては困るのであり、完全に空気を読み違えている日本の姿がここにある。
米国にとっての理想の日本像とは忠実な下僕として米国の言いなりに素直に従ってくれる日本なのであり、
つまりNOと言わない日本、ホワイトハウスに盲従してくれる日本こそが一番求められている姿なのだ。

だから米国の政策に決してNOと言わぬかつての小泉政権を米国政府は熱烈に支持し、
米国の軍事増強のために日本へ憲法改正を「押しつけ」て相当なる圧力をかけているのである。
(その「押しつけ」に屈しようとしている改憲派が「自主憲法制定」といっているこの矛盾は何だろう)

さらにわからないのが集団的自衛権に関わるミサイル防衛だ。
ミサイルを撃たれたら大気圏内にてミサイルで撃ち返すという極めて非現実的な防衛策に
年間2190億円(2007年度)もの税金が秘密裏で注ぎ込まれている。

どう考えても米国の軍事産業を潤しているだけとしか思えない。

百歩譲って命中に成功したと仮定しても、核弾頭が拡散して余計に核汚染が拡がるだけで、
そもそもミサイルが抑止力になるのならば核の存在意義なんて全くないではないか。

「「核の傘」を強調すればするほどミサイル防衛の必要性は減じ、
 ミサイル防衛の重要性を強調すればするほど「核の傘」の信頼性は減じていく」 (p125)

他にも本書では集団的自衛権の議論から発展させて、
世界の"脅威"に対処していくにはどうしたら良いかを現実的な側面から政策提言している。
(中でも 『パキスタンという脅威』 (p140-) は必読)

国と国が領土をめぐって交戦するという概念を前提とした安全保障政策はもはや時代遅れであり、
国家の枠組みを超越したテロリズムにいかに対処していくかが21世紀の国家的課題となってくる。

ここで強調しておかなければならないのはテロの火種となっているのが他ならぬ米国自身であり、
米国が変わらなければ際限ないテロリズムの連鎖はいつまでも止むことがないということだ。

今のままで集団的自衛権を行使できるようになれば日本は確実に米国の捨て石となってしまう。
日米安保という"戦後レジーム"を強化して、米国の言いなりになって憲法を捨てても、
待っているのは「いつかまた来た道」であり、未来に恥と禍根を残すことになりかねない。

「日本における核武装論は、北朝鮮や中国との関係においてしか問題を見ていないという、
 致命的な視野の狭隘さによって特徴づけられているのである」 (p207)

米国へ盲従しても、憲法を変えても、核武装しても、根本的な国際問題の解決には何にもならない。
だからこそ憲法九条を生かすのである。非核三原則を生かすのである。
日本独自の立場を生かして予防外交を展開していくことこそが真の国際貢献なのだ。
今の日本にはリアルなパワーポリティクスが決定的に欠けており、その現実が何ともやり切れない。

集団的自衛権の議論に参加する前にベースとして読んでおきたい一冊。

ISBN 978-4-12-101892-2小泉政権 「パトスの首相」は何を変えたのか
内山 融
中央公論新社 2007-04-25
[中公新書 1892]

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2006年9月、戦後最強の小泉政権が惜しまれつつも表舞台から去っていった。
5年5ヶ月もの長きにわたり政権の座に君臨していた小泉純一郎は、
政治史に残る数々の「革命」で偉大な功績を残し、また負の遺産も国民に残した。
本書はそんな小泉政権の功罪を学術的に解き明かした本格的な政治書だ。

小泉政権と聞いてみなさんは何を思い浮かべるだろう。
おそらく郵政民営化に代表される一連の構造改革を真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。
55年体制に呪縛された日本型重商主義から新自由主義的な経済政策への華麗なる政策転換は
今までの自民党政治では冷遇されてきた都市中間層の利益を政治に反映させ、
官僚-族議員-財界の"鉄のトライアングル"に壊滅的打撃を与えた。
(もっとも完全に既得権益が息絶えたかというとそれには異論がある。
 特に道路公団民営化においては抵抗勢力の強固な抵抗でカタチだけの民営化となってしまった)

が、もっと着目されるべき小泉革命を忘れてはいけない。
それは「政策決定システムの変革」だ。
特に経済財政諮問会議の存在は政治の枠組みを劇的に変えた。

今までは官僚が中心となって政策が形成され、時に族議員と折衷を重ねて対立軸の中間点を模索し、
首相はひたすら調整に尽力するという「和」を重視するボトムアップ的な手法が主流だったのだが、
小泉政権では(特に経済政策においては)官邸主導のトップダウン的な手法が好まれた。
その舞台となったのが毎年「骨太の方針」を決定している経済財政諮問会議なのだ。
(本書では橋本行革によって設置された経済財政諮問会議が森政権の時には全く機能していなかったことを指摘し、
 その事実から小泉の政治的パーソナリティーの秀逸さを実証している)

一連の小泉革命により、政策形成の風通しがずいぶんと良くなり、
あの底なしの不況スパイラルから奇跡的に脱出して今や第二のバブルに突入しようとしている。
就活中の大学生は小泉のおかげで売り手市場の恩恵を最大限に享受しているわけだ。
が、外交政策に関して言うならば小泉政権は経済政策のような戦略性を明らかに欠いていた。

「どのような外交方針を取ることが日本の国益にとって相応しいのか、
 そもそも日本の国益とは何か、国際秩序のあり方としてはどのようなものが望ましいのか、
 日本が真に行うべき国際社会への貢献とは何かといったことについて、
 主体的に熟慮した上で判断したと言えるのが疑問なのである」 (p132)

典型的なのは靖国神社への参拝で、このことにより中韓との関係が一気に冷え込んでしまった。
関係冷却化で経済的ビッグ・チャンスを何度も逸してしまい、近隣諸国とのFTA交渉も大きく遅れをとっている。
戦略的にいえばかなり国益に反する行為を堂々と小泉は何度もやってのけたわけだが、
そこには「パトス」の首相としての側面を垣間見ることが出来る。

「靖国神社に参拝して、追悼の誠を捧げることは自然なこと」
「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」
「この程度の約束を守らないことはたいしたことではない」
「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」

これらの小泉語録は理性よりも直接情念に訴えかけている点で一般ウケは非常によく、
何も知らない人たちをマインドコントロールさせるには極めて効果的な手法であるには間違いないのだが、
政治をロゴスではなくパトスで動かすのは危険極まりない犯罪的行為である。
同時に何でもかんでも二元論に帰する"ブッシュ法"も確かに国民にはわかりやすく、
2005年の総選挙では自民党の歴史的大勝に一役買ったわけだが、これもパトスに訴えかけている点で危ない。

「政治のパトス化は、責任倫理を希薄化させる点でも看過すべきではない帰結を生んでいる」 (p219)

小泉政権の跡を継いだ安倍政権は基本的に小泉と同じ路線ではあるものの、
抵抗勢力と迎合した昭和的な政治が俄に復活しつつあり、「美しい国」に代表されるようなパトス路線も強化されている。
小泉政権が5年5ヶ月で一体何を残したのかを考えることは今後の日本を考えるにあたり非常に重要であり、
本書はそんな小泉政権の実像を知る上で多くの示唆に富む良著であるといえよう。
その他にもここでは紹介しきれないほどの俊逸な考察が満載なので、続きはぜひ実際に読んでみていただきたい。

パトスとロゴスに揺れた小泉政権の真実とはこれ如何に。

ISBN 978-4-00-600146-9戦争責任論 現代史からの問い
荒井 信一
岩波書店 2005-06-16
[岩波現代文庫 学術146]

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ブッシュ大統領がイラク戦争の戦争責任を巡って窮地に立たされている。
もともとイラク戦争は開戦当時のプロセスから無理やり感が否めなく、
私もあまりの無謀振りに怒りを感じて、当時HP上にはっきりと「反対」と書いた。

すでにこの戦争でのイラク人の犠牲者は約6万人で、米軍の犠牲者も3000人を超えている。
絶対不可避の状況だったならまだしも、別にやらなくたって良かった戦争である。
ならばもはや犯罪ではないか。ブッシュ大統領は犠牲者に対してどう責任を持つのだろうか。

が、そこが一筋縄でいかないのが政治の世界である。
個人が何か犯罪を犯せば国家が罪を裁くことができるが、
「国家」の名の下に戦争を遂行すれば国家より上位の概念が現実的にない以上、
(もちろん国連はあるのだけれども、司法的にはほとんど機能していない)
たとえ責任が明確な地位にあっても国際的に訴追するのは困難を伴う。

さて何も戦争責任に揺れているのは遠い国のブッシュ大統領だけではない。
今、我々が住んでいるこの日本だってそうである。
ご近所の国々とはかれこれ60年以上にも渡って戦争責任について揉め続けている。

なぜ今もアジアだけ顕著に揉め続けているのか。そもそも「戦争責任」とは一体何なのか。
本書では第一次世界大戦から現代の紛争に至るまでの「戦争責任」の歴史を可視化し、
日本の戦争責任の"曖昧さ"について舌鋒鋭く迫っている。

日本は独特の曖昧な文化を有していて、それが奏功している場合もあるのだが、
こと戦争責任に限ってはその曖昧さが仇となって深刻な副作用が顕現してしまっている。

「戦争の後始末よりも、アメリカのアジア冷戦戦略のなかに
 日本を経済的軍事的にどう組み込むか」 (p210)

と本文にあるように、とりあえず戦争のことはカタチだけ処理して隅に置いておいて
何よりも経済的な復興を最優先させたのが日本に対するアメリカの戦略であった。

しかしこのことが戦争責任の所在を余計に曖昧にしてしまう。
「一体誰に責任があるのか」という肝心な問いにおいて国民的なコンセンサスが全く得られていない。
あのとき徹底的にウミを出し切っていればおそらく今の欧州のように
少なくとも表舞台では大きく政治問題となることはなかったのではないか。

戦争責任に限らず、日本はなあなあな無責任国家である。
夕張市が財政破綻して「一体誰に責任があるのか」はっきりさせないまま
しまいには「被害者」を装って「なあなあ」で物事を処理しようとしているのは典型例で、
相次ぐ自治体の不祥事も関西テレビも何かにつけて行為を正当化しようとしていて、
結局核心には触れずにカタチだけの責任で物事を逸らせてしまう。

人間というのは自分が犯した罪に対してどうしても素直になれないものだ。
誰しもが自分のことを一番正しいと思っているので、都合の良い事実を誇張して正当化に明け暮れる。
だけども潔く悪いことを認めるというココロの強さも時として必要である。
その素直さが潤滑なコミュニケーションを育んでいき、その蓄積が周囲からの信頼につながる。
そんなココロを今すぐ持って欲しいのが日本政府だ。

全部が悪いわけではない。だが全部が良いわけでもない。
戦争責任は非常に複雑で難しいテーマだけれども、
扇情的な言葉を一切使わずに淡々と学究していく本書はきっと未来のヒントになるはず。

まずはクールダウンさせてじっくり考えながら読んでみたい一冊。

ISBN 978-4-02-273101-2愛国の作法
姜 尚中
朝日新聞社 2006-10-30
[朝日新書 1]

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『美しい国へ』という本が昨年ベストセラーとなった。
私は未だに「美しい国」がどんな国のことを指すのかがよくわからないのだが、
後に総理大臣に登り詰めた著者は今年も「美しい国」作りに邁進するらしい。

「情緒的なフレーズ+政治的なフレーズ」は実に狡猾な文字コラボで、
そのうち「かっこいい経済」とか「きれいな憲法」とか言い出してきて
国民に甘い飴を突きつけてくるに違いない。

確かに桜は美しい。富士山も綺麗だ。
たくさんの自然遺産や「もののあはれ」という独特な感性にも恵まれ、
人々の規律も諸外国と比べれば頗る倫理的であり、
そういった意味で私は日本がとても好きで今風に言えば「愛国者」だ。

が、そういった「美しさ」の対象は歴史的な統一体としてのnationであり、
決して統治機構としてのnationのことを指してはいない。
「国」と表されたとき、その「国」とは「エトノス」としての民族国家なのか
それとも「デーモス」としての国民国家なのか。
ここを意図的に混同させてしまってるのが『美しい国へ』の著者および政府で、
これは国民を欺く大変危険なレトリックであると感じている。

悠久な歴史や自然遺産に触れて好きと思うのは感性的なことであって、
ここに理性が入り込む余地はなくそれこそ「生理的」な次元の問題だが、
政治の場合全く違うことはわざわざ例示して説明するまでもない。
感情や情緒で政治を動かすなんて論外であるし、
「生理的」に行政が進められ、それによってもたらされた悲劇は数知れない。

なのに昨今の愛国心を巡る議論では国を構成する要素である
[自然]と[作為]をごっちゃにしてしまっており、
愛国の定義が重々しくダークに歪められてしまっている。

長所短所を全部受け止めてありのままの国の姿をしなやかに理解し、
それをしたたかに改善していこうという思いは愛国心ではないのか?

本書では今世の中を席巻している「愛国心」にスポットを当て、
国の正しい愛し方、つまり「愛国の作法」について丁寧に解きほぐしている。
著者は冷静な口調でひたすら理路整然と語る姿が印象的な姜尚中氏だ。

文章は敬体であるものの『美しい国へ』と違って難解な言葉が羅列されており、
政治思想の入門書としても拝誦することができる。

中でも印象に残ったのは
「いま澎湃として沸き立ちつつある愛国心や愛することで気がかりなのは、
 この政治的リアリズムが急速に失われつつあるように
 思えてならないことです」 (p127)

の一節だ。

つまり現実社会を見据えた上で具体的にどういったカタチで
持続可能な発展をさせていくかというビジョンが
今の政治家には微塵も感じられないのである。

教育基本法を改正したところでいじめ問題が解決するわけでなく、
再チャレンジ政策が決定的にニートを減らすわけでもない。
年金に代表される福祉の分野では未だ決定打が出せずにいる。

政治腐敗が毎日のように新聞の一面を飾り、
モラルやセーフティーネットがこれほどまでに荒廃に近づいてきているのに
逆に「愛国心」や「愛国者」といった言葉が一般社会に延焼しているのは
いかに政治的リアリズムが欠如した"国の間違った愛し方"を
今までの政治家がしてきたかということの現れだろう。

痛みがない愛なんて愛ではない。
快楽だけの愛なんて毒でしかない。
ただナルシスト的に自分を誇示しても相手は逃げていくだけだ。

どうやら私たちは国の愛し方までをも間違えてきてしまったようだ。
本当の愛し方を取り戻すために本書をおすすめしたい。
最後に著者が読者に"警告"したこの一文を。

「軽蔑すべき日常性から逃れるために
 自分の人生を馬鹿げた概念の型に嵌め込もうとする大衆が
 増えつつあるようにみえます」 (p141)

ISBN 978-4-480-06226-0万博幻想―戦後政治の呪縛
吉見 俊哉
筑摩書房 2005-03-10
[ちくま新書 526]

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戦後日本で開催された国際博覧会の中で
1970年の大阪万博・1975年の沖縄海洋博・
1985年のつくば科学博・2005年の愛知万博に焦点を当てて、
開催に至るまでの過程を政治的ファクターから考察した良著。

本著では旧来型の「万博」が今日に至ってはいかに「幻想」であるかを
豊富な資料と鋭い視座で徹頭徹尾論証している。
その「幻想」の始まりは何といっても大阪万博の大成功であろう。

大阪万博(EXPO'70)は国家と国民が
自国の経済的繁栄を自己確認する壮大なフェスティバルであった。

1960年、当時の総理大臣である池田勇人が「所得倍増計画」を掲げ、
日本は高度経済成長の波に乗り、国民の所得も公約通り本当に倍増した。
1968年には世界第二位の経済大国の地位にまでのし上がることにもなる。

こうした系譜の中で開かれた大阪万博はまさに「おまつり」だ。
「自分たちの国はこんなに豊かなんだ。
 経済や産業が発展すればするほどもっと豊かになるんだ」
という国家が仕向けた宗教的ともいってよい理念で
6400万人の国民が大阪・千里の地で繁栄に陶酔した。

しかし大阪万博の理念は当初「発展」とは全く違ったベクトルにあった。
日本を代表する知識人たちは「人類の知恵」を揃って提唱し、
パビリオンにもそういった文化的な理念を埋めようと試みたが、
国家はテーマ委員会でのそれらの見解を完全に無視し、
公害や自然破壊といった負の部分を徹底的に抑え込んで、
開発・発展のための計画に傾倒していった。
そのことが結果的には群集心理と重なって大成功を収めることとなる。

この大成功が経済発展・開発志向にますます拍車を掛け、
"復帰"直後の沖縄では経済発展の起爆剤として万博が登用された。

沖縄海洋博(EXPO'75)のテーマは「海-その望ましい未来」だ。
しかし実際には開発で海は徹底的に破壊され、
会場選定にいたっては沖縄の"負"の遺産でもある
米軍基地や戦場の風景は完全に封殺されてしまう。
肝心の入場者数も伸び悩んでしまった。

では沖縄で万博を行った意義は一体何だったのであろうか。
本書の言葉を拝借すれば、
「沖縄海洋博の焦点は、すでに会場選択の時点で、
 博覧会そのものよりも博覧会を口実にした道路基盤、
 産業基盤整備と北部開発への下地づくりに移っていた」 (p140)

わけであり、万博と公共事業は表裏一体の存在であったわけだ。

文化のために万博をやるわけではない。
国民のために万博をやるわけでもない。
開催意義はまさに公共事業という名のインフラ整備のためであり、
万博はただ利用されているだけなのであった。文字通りの「幻想」だ。

つくば科学博(EXPO'85)でも状況は変わらない。
メイン・テーマは「人間・居住・環境と科学技術」だが、
博覧会をテコにして新都市である筑波研究学園都市を
造成したいという政治的思惑があったのは明白であった。

山は切り開かれ、地域住民には何の恩恵ももたらされず、
大阪万博の「幻想」である開発志向なハイテク技術を追い求め、
パビリオンも主に子どもに対象のスポットを当て、
結果として一体何がやりたいのかわからない万博となってしまった。

そして現在行われている愛知万博(愛・地球博/EXPO2005)
においては環境を前面テーマに押し出しているが、
これもまた最初は全く違うテーマで愛知県を中心に計画が進められていた。

計画されたのがバブル全盛期とあってか
"大阪万博の名古屋版"とも言わんばかりの
バリバリ開発志向な計画に市民は反乱を起こし、
また意外なことに国家も大阪万博的アプローチには否定的見解をとった。

愛知万博についての計画の変遷は非常に複雑であり、
このことは本著において詳述されているのでそちらを参照されたい。

終章では最後に国家・自治体・市民などのエージェントを
相互に構築して、アウトプットとして新しい「カタチ」を模索している。
大阪万博から愛知万博の35年で特に変わったのは
市民が主体的に都市計画や施策・政策に参画するようになってきたことだ。

元経企庁長官で"ミスター万博"といわれた堺屋太一氏は
「万博はプロの仕事。五輪のマラソンに市民は参加するべきではない」 (p245)
と愛知万博推進最高顧問に就任したときに発言して
市民から猛反発を受けてわずか3ヶ月で職を辞したが、
国家が頂点である殿様計画はもう日本には通用しない。

万博と公共事業の鉄のパイプは諸共崩れ去り、
環境アセスメントや市民との協議も今や政策決定には欠かせない。
ここに既得権益に溺れた業界の入り込む余地などはなく、
もう日本では万博は開催されないのではないか、と
最後に筆者は皮肉を交えながら結論づけている。
つまり「幻想」は21世紀に入ってようやく「終焉」を迎えたのだ。

しかし2010年に中国で行われる上海万博は
北京オリンピックと対を成す国家的大事業として
大阪万博を凌ぐ大規模開発が現在進められている。

…「愛・地球博」へ行く前にぜひ読んでおきたい一冊。

ISBN 978-4-06-149785-6自民党と戦後 政権党の50年
星 浩
講談社 2005-04-20
[講談社現代新書 1785]

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政治部記者出身で現在は朝日新聞編集委員を務める
星浩氏が著した「自民党とは何か」を知るための入門本。

自民党は良くも悪くも戦後日本を代表する国民政党である。
今日の経済繁栄は自民党政策の何よりの功績であり、
時にはウイングを左に伸ばして社会党的な政策までをも取り込み
国民の幅広い層から支持を集めてきた。

イタリアの政治学者:G.S.Sartoriは政党システムの諸類型として
「7つの政党システム論」を唱えた。
その中で自民党は一党優位体制に分類される。

この国では自由で公平な選挙が保障されている上に、
独裁政権というわけでもないのに関わらず
何回選挙をやっても必ず自民党が第一党となる。
(例外として参議院選挙では'89年は日本社会党、
 '04年は民主党に第一党の座を明け渡している)

こういった政党は世界的に見ても希で、
自民党と同じように長期政権を樹立しているスウェーデン社民党
が他に思い当たるくらいだ。

そんな世界でも奇遇な存在の自民党の50年の歴史を
この本ではわかりやすくコンパクトにまとめている。
しかし主に政局にスポットライトを当てているので、
政策的な変遷を本書で詳しく伺うことはできない。

自民党は結党以来一貫として与党の座を保守してきたが(55年体制)、
この50年の中で10ヶ月だけ野党に転じたことがあった。
それが1993年の細川非自民連立内閣~羽田「改新」内閣のときである。

下野の原因としてはもちろん政策的な行き詰まりや
自民党的政治手法の限界もあったのではあるが、
本書では党内の派閥の権力抗争に焦点を当てている。
ここには権力に日夜明け暮れている国民不在の政治家たちの姿があった。

野党に転落した自民党は1994年の羽田内閣総辞職時に
当時の社会党委員長である村山富市を首相指名して政権に復帰し、
イデオロギーでは対極にあった社会党と
連立政権を組むというウルトラCを演じた。
額面通りには誠に理解しがたい出来事だが、
ここには派閥と野党との根回しのパワーゲームが複雑に絡み合っており、
本書では新聞記者らしい視点からその一部始終を刻々と描出している。

また自民党といえば「カネ」のスキャンダルが絶えない。
その原因として本書で挙げられているのが、
派閥制度と事前審査制度だ。
(注:現在では厳密な意味での派閥は存在しない)

日本の政策の最高決定権は内閣でも首相でもない。
教科書では教えてくれないことだが実は自民党の総務会こそが
日本の舵を握る実質的な政策最高決定機関なのだ。

閣議提出される法案や政策の方向性などは
すべて事前に自民党の総務会にかけられ
自民党のGOサインがなければ国会に提出できない。
もちろんこのことは法律には一切書かれていないが、
慣習として"永田町の常識"と化していった。
このことを俗に事前審査制度と呼んでいる。

「これ(事前審査制度)が、自民党に巨大な権限をもたらす「玉手箱」となる。
 予算や法律を成立させるには、自民党の了解が欠かせない。
 だから、官僚たちは自民党議員のもとに日参する。業界の陳情も続く。
 それが自民党の票と政治資金につながる」 (P46)

 
その上、議員には党議拘束をかけられるので、
国会の採決もほとんど意味を成さなく儀式的な会となってしまう。
「自民党をぶっ壊す」と意気込んだ小泉内閣でも
この慣例を打破することはできなかった。

旧社会党は自民党の前で完膚無きまで敗れ去っていったが、
今の自民党には政権の座を奪いかねない政党が着実に力を付けている。
その政党こそが政権準備政党を標榜する民主党だ。
昨年の参院選で比例区では自民党を押さえ躍進し、
日本にも本格的な二大政党の時代がやってきた。

今年、自民党は結党50年を迎える節目の年だ。
しかし党是である憲法改正はその前哨段階である
国民投票法案ですでに頓挫しかけている。
そして日歯連における献金問題や年金問題、
イラク情勢、周辺諸国との関係に至るまで
自民党には耳の痛い問題が山積されている。

高度経済成長と日米安保の幻想に心酔している
自民党に日本の未来を預けることが出来るか否か。
有権者は政権党の行方を注視していかなければならない。

2008年4月

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