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ISBN 978-4-10-207101-4変身
カフカ/著  高橋 義孝/訳
新潮社 1952-07-28(改:1985-06-10)
[新潮文庫 カ-1-1]

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時折、変な夢を見ることがある。
オネーチャンがたくさん登場するハーレムな夢ならば起床後も現実であってほしいと心から願うが、
生死を彷徨うほどの恐怖の夢から覚めた後は寝汗がベトベトと身体に染み付いて実に後味が悪い。
そして意識を取り戻した瞬間に"夢で良かった"と安堵の息をつく。

ではもし夢から覚めた後に現実が変わっていたらどうだろう。
自分の姿形が一夜にして「虫」に変身していたとしたら...

グレーゴル・ザムザは夢から覚めるとなぜか虫になっていた。
この衝撃的な事実から物語が淡々と始まっていく。

想像してみてほしい。起きたら自分が虫になっているのである。
脚の数が多くて、触覚が鋭敏で、這うようにしないと身体を動かせない...
もし私が突然虫になってしまったら、間違いなく発狂してしまうに違いない。
理由が全く理解できない上に、"人間ではない生き物"という現実がきっと私には耐えられないだろう。

だが虫になってしまった張本人であるグレーゴルは取り乱すこともなく至極冷静に現実と対峙していた。
自分が虫であることは紛れもない現実だ。どう足搔いたってこの現実は覆りそうもない。
ならば虫としていかに生きていくかを脳をフル回転させて模索していく必要が出てくる。

まずは第一歩として今日の仕事に行けなかったことを家族や上司にいかに説明しようかと虫は考えた。
無断欠勤ではあるがさすがの上司も自分が虫であることに気付けば少々は甘くみてくれるだろう。
そこでグレーゴルは思い切って扉を開けようとするが、虫だけになかなか上手く開けることが出来ない。
人間ならば何でもない行為でも、虫だとその労力は何十倍何百倍にも跳ね上がる。
そして無事に扉を開けて、グレーゴルの変わり果てた姿を見た家族や上司は...

全体的に抑揚を抑えたクールな文体で物語が綴られてゆく。
そこには人間が虫になったという野次馬的な興奮は全くない。
まるで自然の風景をそのまま切り取ってスケッチするかのような単調さがこの物語にはある。

文学用語を使うならば20世紀のいわゆる「実存主義」を代表する作品だ。
過去に古今東西の学者や評論家がこの意味不明な作品に対して無数の解釈を試みてきたが、
ここで私も生意気ながらカフカが伝えたかった「何か」について考察してみることにしたい。

結論から言うと「虫」は物体的な概念ではなくココロを表現しているのではないだろうか。
つまり人間の中に蠢いて行動を規定しているココロをこの物語では「虫」として可視化させたわけなのである。
例えば現代でも社会問題となっている「燃えつき症候群」というのはある日突然症状がやってくる。
朝起きようとするとまるで碇に繋がれてしまったかのように身体を動かすことができなくなってしまい、
語弊を恐れずに言うならばココロが一瞬にして虫と化してしまうわけだ。

今まで当たり前のようにこなしてきたタスクがある日を境に著しい困難を伴ってしまう。
本書では何時間も這わないと部屋を横切ることが出来ない現実に虫は大いに嘆いているが、
その嘆きと燃え尽きてしまったココロの渇いた叫びは質量こそ違えど重なるところがある。

また一日や二日ならば燃え尽き症候群も大目に見て貰えるけれども、
この症状が月単位で慢性化してしまうとだんだん社会的に窮地に立たされてきて家族も苦況に追い込まれる。
次第に見捨てられる存在となり、場合によっては命を踏みにじられるようになってしまう。

この物語の「虫」も最後には家族に見捨てられて餓死する運命を辿ることになるが、
抵抗に抵抗を重ねるわけではなく、空気のように「死」を受け入れてグレーゴルはその瞬間へ静かに身を捧げていく。

ではグレーゴルが虫としての一生を遂げて達観した先にある「何か」とは一体何か。
あなたにはその独特な世界観の解を氷解することができるだろうか。

明日の朝に備えて今日寝るまでに読んでおきたい一冊。

ISBN 978-4-10-211401-8異邦人
カミュ/著  窪田 啓作/訳
新潮社 1954-09-30(改:1995-06-15)
[新潮文庫 カ-2-1]

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何が「善」なのか。何が「悪」なのか。何が「正義」なのか。
社会の多数派が絶対不可侵な常識を形成しているこの俗世においては
価値基準なんて所詮空気に立脚した酸化物にしか過ぎない。

何か大きな事件が起こると、マスコミや社会は絶対善の如く正道のシュプレヒコールを叫び続ける。
そして犯人の非人間性をドラスティックに糾弾し、誇張された人間像がセンセーショナルに人々の心へ降り注いでいく。
極端に不可解な行動を起こす輩は人間社会から早急に抹殺すべき対象であり、
異物排除の課程においてはいかなる非人道的(と社会様が認定した)行為を行使しようとも基本的には免罪なのだ。

このような秩序と規則で雁字搦めにされた世の中は民衆が権力者となった全体主義国家とも喩えることができる。
心にも思ってない中元や歳暮を毎年やり取りし、自分と考えが違っていても常に空気を読むことを要求され、
しきたりという名の文化去勢が日常的に行われる...実に馬鹿らしくて不条理なことではあるのだが、
ここで自我を主張することは人間社会においては許されない。もし周囲から逸脱しようものなら陰湿な制裁が待ち構えている。

今回ご紹介する本書はそんな世間の眼に抗しながら自らの不条理なまでの論理を極限にまで追求した名作で、
カミュが遺したフランス文学の金字塔である(蛇足ながら訳が少々読みにくい)。

物語は主人公:ムルソーの母であるママンが養老院で死を遂げたことを知るシーンから始まる。
母の死に涙一つも流さず無関心を貫くムルソーは次の日にはもうバカンス気分で享楽的に女と交わっていた。
そしてアラビア人を殺害する。別に殺さねばならぬ理由なんてない。ただタイミングが合ったから殺しただけだ。

やがてムルソーは裁判に掛けられ、法廷にてこれでもかと人格を吊し上げられる。
こいつは自分の母の死ですら一滴の涙も流さない極悪非道な男であり、
おまけに殺した理由は「太陽のせい」とわけのわからないことをほざいている。
こんな奴は死刑だ。弁護士がどう情状酌量の余地を狙おうが死刑以外に選択肢はない。

端から見ればこのような社会の眼は一見正しいかのようにも思われる。しかしそうだろうか。
涙が出てこないものはしょうがないし、出てこないからといって非人間性を証明する足掛かりになんてならないはずだ。
じゃあ逆に涙をボロボロに流してさえいればそれで良いのか。
心思と行為が隔絶した状態でも人道的状態を維持すれば丸印の体裁がつくのか。

殺人だってそうだ。社会は何かと行動に意味を持たせたがるが、この場合は動機なんてないのだ。
ないことをないといって何がおかしい。ないことをあるように言うほうが遥かにおかしいではないか。
自分は太陽が見えたから殺した。事実はそれ以上でもそれ以下でもない。それがただすべて。

結局ムルソーは死刑判決を受けてしまう。そして死刑囚として独房で独り思索に耽ることになる。
そこで彼は司祭の訪問を拒絶する。が、それでもやってきた司祭は彼にいろいろと質問をした。
神を信じているか?希望はあるか?良い生活を望んでいるか?
答えは全部NOだ。すると司祭はそれにも関わらず「あなたのために祈る」と言っている。

もう我慢できない。

「私の内部で何かが裂けた。私は大口あけてどなり出し、彼をののしり、
 祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった」 (p128)

俺はそうだと思うからそう思う。正しいと思うからこそ志を貫徹する。それの何が問題なのだ。
むしろ軋みを助長させるおまえたちのほうがおかしい。祈っていればそれですべてが万事なのか。
そんな社会なら自分を笑え。憎悪の視線をもっと浴びせて好きなだけ石でも投げやがれ。
喜んで的になってやろうではないか。無を帯びた人間は無を貫くからこそ価値がある。

「私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、
 私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった」 (p131)

不条理が不条理を超越する瞬間をあなたはこの一冊にて見るはず。

ISBN 978-4-10-215901-9かもめのジョナサン
リチャード・バック/著  五木 寛之/訳
新潮社 1977-05-30
[新潮文庫 ハ-9-1]

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先日、東京地裁はライブドアの元社長:堀江貴文被告に実刑判決を言い渡した(被告は即日控訴)。

ご存知のように堀江被告(以下ホリエモン)はほんの2年前までは若者にとって教祖的な存在であり、
かくいう私もホリエモンの革新的なスタンスに共鳴していた若者のうちの一人であった。

何も六本木ヒルズに憧れて世の中お金がすべてだと思っていたわけではない。
21世紀になっても社会を支配し続ける昭和的な価値観や既得権益を否定し、
バックボーンに縛られずにTシャツ1枚で起業して社会を変革しようとしたその"姿勢"に惹かれたのだ。

残念ながらそのホリエ・マジックの絡繰りは犯罪的なほどブラックであったことが証明されたが、
「金儲け」や「会社経営」の極地を追求しようとした姿勢までをも否定してはならない。
確かにホリエモンにはやりすぎた面もあり、その点は猛省して罪を償うべきだけれども、
"排除ありき"でこういった異端児を社会から退場させる社会にも私は何かと問題を感じてしまう。

今回ご紹介するこの本に出てくるかもめも現代で言えばホリエモンのような存在なのかもしれない。
普通のカモメは特に深く考えるまでもなくただ生きるために飛んでいるわけだが、
ジョナサンは「飛ぶ」という行為そのものに取り憑かれ、やがて「飛ぶ」行為に没頭しはじめる。

そんなジョナサンに周囲は冷淡だった。次第にジョナサンは孤立していく。
しかし逆にジョナサンはそんな周囲の"普通さ"を嘲笑していた。
"おまえらフツーのかもめに何がわかるんだ?
 俺こそが一番かもめらしい生き方をしてるんだぞ。おまえらはかもめじゃない!"

「飛ぶ」行為を修練していった結果、ジョナサンは他のどのかもめよりも飛べるようになっていた。
そしてジョナサンは極地の果てへと孤高に突き進んでいく。そう、ひたすら自らの可能性を信じて...
買収や増資を重ねてついにはニッポン放送までモノにしようとした"あの会社"の勇姿がふと目に浮かぶ。

この寓話は一時期ヒッピーの間でかなり読まれた作品だそうだ。
しかし一歩間違えればいつまで経っても現実を見ようとしない
"夢見る夢子ちゃん"症候群に陥ってしまうのも事実である。

昔テレビで巨額の資金を用いて徳川埋蔵金をひたすら発掘する番組があり、
「夢・ロマン」「可能性に懸ける」といって何年にも渡って掘り続けていたのだが、
結局埋蔵金は一銭も見つからず、残ったのは穴掘りに消えた大金と虚無感だけだった。
しかも無惨にも夢の痕が眼前に可視化されるため、余計にやり切れなさが募る。

可能性を追い求めることは素晴らしいことである。
しかしやはり追い求めることには"リスク"があることも忘れてはならない。
ホリエモンはあえて"リスク"に手を出して自滅してしまった。
ジョナサンだって自らの可能性と引き替えに仲間や絆がないといった"リスク"を背負った。

この小説が読者に提示する世界観の意味はものすごく奥深い。

ジョナサンのような生き方は美しくもあり危なくもあり...
"可能性"と"人生"について真剣に考えてみたくなる一冊。

ISBN 978-4-10-210004-2老人と海
ヘミングウェイ/著  福田 恒存/訳
新潮社 1966-06-15(改:2003-05-30)
[新潮文庫 へ-2-4]

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今、世界各地では「マグロ」が何かとブームだ。
日本でも延々とマグロ漁をする番組がテレビのゴールデンタイムに放映され、
漁師たちが数百万円はするであろう巨大なマグロと連日死闘を繰り広げている。

マグロ漁は「鍛え抜かれた男の仕事」とよく言われるように
肉体的にも精神的にも非常にハードな仕事だ。
釣れる確証もなければ、一つ間違えると命の危険も伴い、
その男気溢れる海のロマンはいつの時代も人々を魅了し続けてきた。

本日ご紹介するのは半世紀前に発表されたマグロ漁を描いた一作だ。
本作は米国の作家:ヘミングウェイの1952年の作品で、
ノーベル文学賞も受賞した世に言う"名作"である。

内容は「じいさんが一人で巨大マグロを釣っている」"だけ"の物語で、
良くも悪くもアメリカ文学の猪突猛進さが色濃く滲んでおり、
この一本気な世界観は読者にとって好きか嫌いかはっきりと分かれるところだ。

物語的には特に何の捻りもなく、いささか単調と言っても良いくらいだが、
文豪ヘミングウェイの筆力がずば抜けて素晴らしく、
今にも水しぶきがかかってきそうなダイナミックな情景描写には思わず息を呑んでしまう。

物語に出てくる老漁師が相手にするのは法律も道徳も通じない自然の海世界だ。
たとえ鮫が人間に襲い掛かったとしても鮫だって自らの生活のために漁をしているのであり、
人間と全く同じ動機である限りは一方的に鮫を弾圧する資格なんて人間にはない。

いつから人間は自然界で一番偉くなったのか-。

海の世界では人間が完全に鎮圧しているように一見見える。
どんなに屈強な魚が襲ってこようが、人間にとってみればミサイル一発でジ・エンドな存在だ。
しかし魚を食べるという行為があまりに日常化しすぎてしまって
我々は自然に対する畏怖の念を忘れてしまってはいないだろうか。

老漁師は棍棒だけを武器に持ち、たった一人で闘いに挑んだ。
だからこそ身に沁む自然の荘厳さ。ヘミングウェイの圧倒的な表現力はまさしく身震いモノだ。

今晩マグロを食べる前に読んでみたい一冊。

ISBN 978-4-00-327142-1美しい夏
パヴェーゼ/著  河島 英昭/訳
岩波書店 2006-10-17
[岩波文庫 赤714-2]

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タイトルに惹かれて思わず衝動買いしたのがこの一冊。
戦後の現代イタリア文学を代表する作家の"わけあり"な作品だ。

『美しい夏』といういかにもサザンっぽいタイトルではあるものの
実際はいわゆるsummerlikeな物語では決してない。
むしろ男女の陰翳な人間関係を抉り出した戦中色の濃い一作で、
文中の随所随所に暗澹たるこの時代特有の趨勢が影を落としている。

この作品はもともとファシズム体制下の1940年に執筆され、
刊行されたのはそれから9年後の1949年のことだ。
イタリア最高の文学賞であるストレーガ賞を受賞したのはその翌年のこと。

なぜ10年近くも発表されなかったのかについては
巻末に収載されている訳者自身による解説を参照されたいが、
政治的な理由の他に文学的な事情もどうやら重なっているようだ。

物語は16歳のジーニアと19歳のアメーリアの二人の少女が
大人な体験を通じて少女から「オンナ」へと成長していく過程を描出している。
今と違って「ここにあるもの」以外何もなかった時代。
ものすごく狭い世界の中で偽りの感情に翻弄され、
孤独と愛に傷つく二人の姿を思うと不憫でならない。

この二人は時に女同士でも愛し合う。
『美しい夏 (La bella estate) 』というタイトルは
本来は『カーテン (La tenda) 』と名付けられていたそうだが、
それでは生々しいということで書き改められたのもそのためか。

レズビアンの愛も大人の男との愛もどこか哀しい。
潤いの一つもない「愛」。でもそれが彼女たちのすべて。

雨の降る午後、レトロな珈琲館で嗜んでいたい一冊だ。
イタリア文学はなかなか一般にお目にかかることはないので、
今回岩波文庫に収載されたことは大いに歓迎したい。

2008年4月

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