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ISBN 978-4-10-128952-6土の中の子供
中村 文則
新潮社 2008-01-01
[新潮文庫 な-56-2]

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PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が一般にも広く知られるようになったのは
確か阪神・淡路大震災がきっかけだったように記憶している。

震災時、大阪に住んでいた私は幸いにも生命に危害が及ぶほどの状態には陥らなかったが、
それでもテレビ画面に映し出される衝撃的な映像や断続的に続く余震は恐怖を増幅させ、
少し揺れただけでも全身に戦慄を覚え、トイレへ行くのですらも震え上がっていた。
今にして思えばこれは一時的に私を襲った軽度のトラウマだったように思う。

もちろん神戸で被災された方々が実際に受けた衝撃やトラウマには計り知れないものがあった。
未曾有の大惨事は児童から大人に至るまで精神的に激しいショックを与え、
今なおPTSDに苦しみ続けている被災者の方がおられることも決して忘れてはならない。

幼き日に体験したトラウマというのは身体の奥深くにまで刷り込まれ、
それを消し去ろうとしてもなかなか思うようには消えてくれないのが現実だ。
震災のような大きなトラウマはもちろんのことながら、
小さなトラウマだって日常生活に重くのし掛かっていく。

ショッピングセンターで迷子になり、閉店後もすぐには親が引き取りに来てくれなかった体験。
些細なことで血相を変えるくらい親に怒鳴られ、誰にも助けてくれない孤独を感じた体験。
身体のことに関してクラスメイトにちょっかいをかけられ、大きな恥をかくことになった体験...
そういったトラウマは人間の行動の一部を知らず知らずに規定し、
次第に人生をも浸食していって、この社会に生き続けることがだんだん嫌になってくる。

今回ご紹介する物語の主人公は幼き頃、義父母の家で日常的に虐待されていた。
殴られ、蹴られ、自分という全存在をこれでもかと否定され、
生きていることそれ自体が罪だということを認識せざるを得なかった。
ひょっとして自分は汚れることにしか存在意義を見出せないのだろうか。

虐待は更にエスカレートしてやがて主人公は土の中へ生き埋めされることになる。
かつて人間は屍になると土葬され、「生物」として食物連鎖の自然界へと還元されていったが、
今ここに生き埋められている自分はまさに最も人間らしい行為を完遂しようとしている。
素晴らしいではないか!これで義父母の顔を見なくて済む上に醜い世界とも縁を切ることができるのだから。

いや、主人公は納得しなかった。違う。違う。何かが違う。だけど何かが何なのかがわからない。
その何かを言葉で明瞭に表せるようになるためには生き続けなければならないのではないか。
このままではあまりにも生き損であり、トラウマという絶壁を克服しなければ、
自分の魂を翫び続けた義父母が笑うだけであり、その笑い顔は私を殺していくに違いない。

「私は、生きるのだ。お前らの思い通りに、なってたまるか。言うことを聞くつもりはない。
 私は自由に、自分に降りかかる全ての障害を、自分の手で叩き潰してやるのだ」 (p92)

こうして九死に一生を得た主人公だったが、大人になってからも苦難は続いた。
マゾヒスティックに不幸を欲している自分。己を刃物で傷つけて笑っている自分。
常人には理解しがたい奇妙な行動を取る主人公のココロの粘膜は見事に剥がれ落ち、
消えないトラウマを完膚無きまで消し去るために主人公は無駄とも言える藻掻きを繰り返していた。

「このまま何の役にも立たずに、虫みたいに死んでいく自分がだよ。
 しかも、俺は笑ってるんだ。屑じゃないか。そうだろう?」 (p59)

彼にとって「生」とは一体何だったのだろう?
自殺的な行動を何回もとってしまうのに決して死にたいわけではなかった主人公。
彼の悲劇的な人生から私たちの生きるヒントを酌み取るとしたら何があるのだろうか。
それはあなた自身で本書をお読みになって"悲しき性"を感じ取ってほしい。
人間はどんな逆境に陥っても逆説的に希望を抱き続けることができるものなのだ---

本書では他に短篇『蜘蛛の声』も収録されている。
この物語もトラウマに起因して生の根源を探っていく物語だが、
併読すると作者のアイデンティティが見え隠れして実に興味深い。

電気を消して蝋燭を灯しながら読んでみたい一冊。

ISBN 978-4-06-275998-4日の砦
黒井 千次
講談社 2008-03-14
[講談社文庫 く-4-4]

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18時までには家に帰ると伝えたはずの同居人が19時を過ぎても帰ってこない。
いやいやまだ1時間だ。1時間程度で不安感を募らせていては自分の沽券にも関わってしまう。

2時間が過ぎた。さすがに不審に思って「今どこにいる?」との所在確認メールを送るも返事はない。
電話をしても「この電話は現在...」のアナウンスが延々と繰り返されるばかり。

ひょっとして何か予期せぬ事件に巻き込まれてしまったのだろうか。
もしくは事故に遭ってしまって今頃意識が朦朧としているのだろうか。

嫌な汗が全身から滲み出る。どうか無事であってくれ。
このまま家に帰ってこなかったら警察に捜索願を出さなければならなくなる。
そうなると厄介な雑務に追われるし、明日の仕事も行ってる場合ではなくなってしまう。

...すると突如として玄関のベルが鳴り、何食わぬ顔で同居人が帰ってきた。
「いや~、隣の奥さんと話が弾んじゃってついこんな時間に...」

安堵の表情を浮かべると同時に、今まで抱いた底知れぬ不安感が一瞬にして砕け散っていく。
人生というのは意外にこういった不安と安堵の繰り返しで組成されているのかもしれない。

このように日常的に起こる不安感と平凡な家族の葛藤を描いたのが今回ご紹介する連作短篇集だ。
主人公の高太郎は定年を迎えてセカンドライフを満喫する典型的な60代の男性で、
趣味や交友録といったものも特に持たないため、早急に生きがいを見つけなければならない。
妻の堤子との間には一男一女をもうけ、長男の夏男は結婚して家を出て行ってしまった。
残った長女の秋子と共に首都圏の郊外にてひっそりと過ごす毎日を送っている。

結婚,マイホーム,子育て...といった華やかな目標があったサラリーマン時代とは違い、
人生を揺り動かすような明確な目標を築きにくいのがセカンドライフ。
安心して老後を送るためにも家族とのふれあいをもっと密にしていきたいところだが、
仕事一筋に生きてきた高太郎にとっては家族との距離感がなかなか掴めず、
会話を交わしても旅行に行っても妻や娘と上手く噛み合うことができない。

同じことの繰り返しとなる毎日においては些細なことでも脅威と映り、
逆にどんな小さな事でも新鮮に映るという"感覚神経の鋭敏化"が起こるものだ。

例えば本書収録の『家族風呂』では家族3人での一泊二日の温泉旅が描写されているが、
物語中に登場する出来事にインパクトがあるというわけでは決してない。
全速力で走り続けるビジネスマンにとっては一時記憶もされないくらい微々たることであろうし、
そんなことに対していちいち不安や安堵といった感情を生じさせる暇もないだろう。

しかし今の高太郎にとっては目の前に勃興するプライベート空間こそが全世界なのだ。
なのでどんなに小さな出来事でもまるで自らの根幹を揺るがす事態のように受け止めてしまい、
他に思いを巡らすことがないせいか条件反射のように反応してしまう。
そして非生産的な時間だけが悪戯に過ぎていき、人生の終幕へと一歩一歩近付いていく...

このような状態を"哀愁漂う"と表現するとどうしても爺臭くなってしまいがちだが、
人生の第二コーナーを曲がった人にしかわからない特有の感覚が実に上手く表現されている。
年を重ねて老境に入るのがこんなにもせつないことだなんて私にはまだ実感として湧かない。
でもこのせつなさは私が今まで味わってきたせつなさと明らかに質感を異にしており、
黄泉の芳香を漂わせているのも"死"には抗えない人生の無情さを感じてしまう。

不安、そして安堵。その行間に潜んでいる人生のエッセンスとは一体何か。
その答えは本書を手にとって各々の価値観に照らし合わせながら確認していただければと思う。

老後の人生を襲う不安について少し覗き見してみたい人に贈る一冊。

ISBN 978-4-86176-494-3アシタ
藤堂 絆
ジャイブ 2008-03-16
[ピュアフル文庫 と-1-1]

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人間として生きている以上、生命を維持するためには睡眠が必要不可欠だ。
なのに私は寝ることがあまり好きではない。出来ることならずっと寝たくないとも思っている。
一日という限られた生活時間の中で寝る時間が無駄なように思えてならないのだ。

寝付くのもとても苦手だ。ベッドの中に入っても何時間も覚醒し続けていることのほうが多い。
一度眠りに就いてしまったらもう二度と目覚めることがないのではないか...
入院生活が長かったせいかそんな恐怖心が私を支配し、睡眠という生理的行為を遠ざけていく。

思い返してみると10代の頃は全くそんな思いを抱かなかったはずだ。
6~8時間後に起きるときには確固たる新しい明日が眼前に屹立していて、
"アシタ"は何の疑うこともなく線路のように延々と続くものだと確信していた。

だけども時間というのは無情なもので、"アシタ"を繰り返すに連れて人は死へと近付いていく。
回想という手段で形而上の"キノウ"に触れることは出来ても、経験することは二度と出来ない。
ましてや"アシタ"にどんな運命が待ち受けているかなんて誰一人としてわからない。

そう考えていくと"キョウ"がどれだけ愛おしいことか。
楽しいことや思い出に残ることは出来るだけ先延ばしせずに"キョウ"のうちにやっておこう...
"アシタ"という質感を感じてしまった私はそれだけ年を重ねてしまったということでもある。

『"アシタ"を知らない世界にもう一度だけでも戻りたい』

本書は思春期の主人公たちが繰り広げる甘酸っぱい果実が行間に滴り落ちるような短編集だ。
と言っても一つの統一されたテーマに沿って執筆されたわけではなく、
今までに発表された作品+書き下ろし作品で構成されており、著者のデビュー作でもある。

何も知らないことが思春期を生きる彼らにとっては最大の武器であり、最大の致命傷でもある。
「"アシタ"があるとは一体どういうことか」などと哲学的に考察すること自体ナンセンスであり、
そんな難しい概念とは縁遠いからこそ彼らは無邪気に笑い、全力で突っ走ることが出来る。

本書では糸と糸を絡めて時間軸を紡ぐような繊細な物語が5作品収録されている。
しかもただ単にピュアフルという要素だけで展開していくのではなく、
"けしからん"要素を巧みに組み入れながら物語を薦めていくのは新鮮に映った。

通常こういったピュアフルな小説の場合は、ひたすら果汁100%のまま最後まで走りきるか、
ケータイ小説にあるような過激な体験をふんだんに盛り込み、人生をoverdoseさせてしまうか
の孰れかがstorytellingの定石なのだけれども、5作品ともこういった展開は踏んでいない。

例えばオープニングの『聡史がいない日』を見てみよう。
高校生の京子は図書館で偶然出会った聡史に恋をして何度かデートを重ねるが、
その裏で聡史は幼なじみの奈々江と肉体関係を持っていた。

ただ、聡史と奈々江はいわゆる愛人関係ではない。かといって体目的の関係というわけでもない。
幼なじみ故にあまりにお互いを知りすぎた二人にとって恋愛感情は共存の余地がなく、
奈々江はオトコとして見ていた聡史という存在が恋心を発露することによって遠ざかることを恐れて、
「本当に好きな人は他にいる」という仮説を企てて、ゲームとして割り切ったフリをしながら聡史を抱いているのだ。
ここにあるのはピュアフルとは対極的な実にシステムチックな"情愛"の姿である。

しかしここからがおもしろい。やっぱり二人は思春期を生きる男女だったのだ。
タイトルからしてわかるように物語の後半、聡史に突然"死"が訪れる。
その時"アシタ"が延々と続くものだと思っていた京子と奈々江が感じたものとは...
"アシタ"にいるはずの聡史がいない。じゃあ"アシタ"にどのような思いを抱けば良いのだろう?

さて私がこの本の中で特にオススメしたいのが『君と手をつなぐ』だ。
高校受験を控えた中学3年生の女の子が大学生の塾講師に恋をするストーリーなのだが、
彼女は帰りのバスの一番後ろの席でいつも座ってくれる塾講師と密かに手を繋いでいた。
それ以上は何も望まない。ただ、憧れの人とほんの少しの間、手を繋ぐだけで幸福だった...

...おっと、短篇作品だけにあまり書きすぎると面白みが失われてしまうのでこの辺で止めておこう。
定石通りには物語が進まないし、限りなくピュアフルだが純度100%というわけでもない。
最後の場面の描写が"アシタ"という言葉の意味を最も美しく反映していて私の琴線に触れ、
時間という概念を生み出した超越的な存在を思わず抱きしめたくなってしまった。

「「今」が未来にもう一度やってくることは、絶対にない」 (p83)

春休みを過ごす君にオススメの一冊。

ISBN 978-4-10-100156-2東京奇譚集
村上 春樹
新潮社 2007-12-01
[新潮文庫 む-5-26]

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"餃子の王将"が主食であるはずの私にしては珍しく
その日の夜は無性にイタリアンを食したい気分に駆られた。

決して気取っていたわけではない。ましてや功利的な動機に浸食されていたわけでもない。
その時の私は何かに憑依されたかのようにオリーブオイルを渇望しており、
腹が鳴るのを抑えてチーズの匂いを嗅ぎ分けながら繁華街を右往左往していった。

ところがどれだけ探してもイタリアンの店が見つからない。
これだけ歩けば一軒ぐらいはパスタの看板を目にしても確率的におかしくないはずなのだが、
目的の店には見事に巡り会うことがなく、いつの間にか普段は歩かない道を闊歩していた。

そして辿り着いたのが自分の意思では滅多に入らないであろう高級店だったのだ。
セレブな雰囲気が店中に充満し、そこには私の愛するネコのアンティークが屹立していて、
料理も文句なく美味しく、束の間の幸福に充足することができ、私のすべては満たされた。

帰り道、あれだけ探しても見つからなかったイタリアンの店が嫌と言うほど目に付いた。
まるで一時的にテナントを衣替えしていたかのように私の視界から影を潜めていた店たち。
ひょっとして私がセレブなネコの店に出会うために、自己主張を留めておいてくれたのかもしれない。

どうして行くときにイタリアンいっぱいのこの道を通らなかったのだろうか?
"偶然の産物"に過ぎないではないかと言われれば確かにその通りだ。
だがこの奇譚的な現象に意味性を求めるとしたら果たして何があるだろう。
超越的な自己が身体的な自己をコントロールしながら、運命の幻影を翫んでいるのだろうか。
私たちの手が及ばない不可侵の領域で、運命の歯車は何かに向かって動き続けている--

本書は大都会・東京の片隅に起こる不思議な話を描いた文字通りの"奇譚集"だ。
日常的にありそうな話からパラレルな話まで短篇・中篇が5作品収録されており、
現実からほんの少し捻れた不可思議な世界観を体感することができる。

オープニングを飾るのは『偶然の旅人』という物語だ。
ピアノの調律師が実はゲイであったという衝撃的な事実から始まるこの話では、
ある日ある場所で偶然出会う既婚女性を媒介に運命が一つへと繋がっていく。
世の中は案外広くないとよく言われるけれども、強ちウソでもないかもしれない。

続く『ハナレイ・ベイ』の主人公はハワイの海にて19歳の息子を亡くしてしまったサチで、
彼女は息子を忘れないために毎年ハワイで命日を過ごしている。
ある年、息子と同い年ぐらいの若者二人組と偶然ハワイで仲良くなり、
その二人組から信じられないようなある事実を告げられることに...

三作目の『どこであれそれが見つかりそうな場所』ではもっと不思議な世界観が漂う。
主人公の夫が何の前触れもなく突然階段の踊り場からいなくなってしまうのだ。
理由が全くわからない。だけどもいなくなってしまったことは事実。
そこで妻は謎の探偵へと調査依頼を出し、探偵は踊り場を調査し始めるが...

売れない作家を主人公に据えたのが四作目の『日々移動する腎臓のかたちをした石』だ。
「一生の間で本当に意味を持つ女は三人しかいない」という父の呪縛に彼は苦しみ続ける。
偶然出会った年上の女がその三人のうちの一人に入りそうだということで、
彼は今までほとんど他人にさらけ出さなかった自己を彼女へとぶつけることになるが...

そしてぶっ飛んだストーリー展開なのがラストの『品川猿』だ。
安藤みずきは突然自分の名前が出てこなくなる症候群を発症してしまった。
住所や電話番号は問題なく出てくるのだが、何故か名前の記憶だけが飛んでしまう。
医者に診てもらっても真相がよくわからない。仕事にも支障が出るだけにとても困る。
どうにもならなくなってしまったみずきはカウンセラーに相談することになり...

小さな偶然がピースのように絡まり合い、未知の真実が抉り出されていく。
結果論と言われればそれまでだが、震度0の偶然と共に私たちはきっと日々を生きているのだろう。
そんな微細な人生の揺れに耳を澄ますと、想像もつかないほど洗練された世界があることに気付く。
日常に経験するあらゆるレベルの出来事は何らかの意味へと収斂していくのかもしれない。

偶然性が気になるあなたに贈りたい一冊。

ISBN 978-4-344-40601-8Lyrical Murderer
桜井 亜美
幻冬舎 2005-02-10
[幻冬舎文庫 さ-1-27]

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今の中高生は「告白」や「別れ話」といった恋愛イベントまでメールで済ませるそうだが、
メールに宿すことの出来る"愛"の総量には自ずから限度がある。

例えばメールで「君のことが好きだ」と書いていたとしよう。
実際に面と向かって真剣な表情で「好きだ」と言われれば、
その"愛"は何の疑いもなくココロの奥底へと滑らかに浸透していくが、
メールだけで愛の言葉を囁かれてもなかなか体内へと吸収されない。

それは相手の顔が見えないというメールの致命的な側面が人々を疑い深くさせるからである。
クレオパトラを口説くほどの美辞麗句がどれだけ連ねられていたとしても、
文脈を過剰に邪推してしまうせいか愛を素直に信じることができないのだ。

もしかしたら嘲笑うかのような表情を浮かべながら適当にメールを打っているのかも...
絵文字ナシのやけに堅い表現だったからホントはそんなに好きじゃないのかも...

"傷つきたくない"という汚れを知らないピュアなココロがメールという保険的手段に対話を逃避させ、
相手を傷つけないように、自分が傷つかないように慎重に言葉が紡がれていく。
ところがそのほうが相手をより深く傷つけていたりもするのだが、そのことに二人は気付かない。
まさにメールが『Lyrical Murderer』とも称される所以であり、
今回ご紹介するこの本に登場する二人もそのパラドックスに見事に嵌り込んでしまう。

本書は大学生と高校生が真実の愛をメールという手段だけで求め続けるせつない恋物語だ。
主人公であるダイチは札幌から上京してきた大学生で、
恋人はいないものの年上のOLのヒモとなって生活費を負担してもらっている。
そんなダイチのメールボックスに一通のメールがやってくることから物語が始まっていく。

そのメールは出会い系サイトに呼び込むためのいわゆるサクラメールだったのだが、
そこに書かれていたある一点がダイチの心に引っ掛かり、
差出人の名が過去に恋した女の子の名前と一緒であることにも偶然気付く。

彼女の名はイリア。都内の高校に通う17歳のお嬢様女子高生だ。
中年のオヤジであるローリンの愛人に明け暮れながら、
同級生のアンナと共に寮生活を営み、渋谷で遊び呆ける日々を過ごしている。
(...とメールで書いていたのだけれども、実はイリアのプロフィールには秘密があった!)

メールを何回かやり取りしていくうちに二人はだんだん自分の本当の姿を文面にぶつけていき、
会いたいという気持ちが沸点に達したときにイリアはブラインド・デートを提案する。
お互い変装してから集合場所に現れ、見つけたとしても絶対に話し掛けてはならない--
そしてブラインド・デートを試みた二人の運命は思いもしない方向へと急展開していくことに......

本書で特に印象的なのは自己を肯定することの出来ないイリアが病的に煩悶する姿だ。
どこにいても楽天的で友達もたくさんいるアタシの仮面が剥がされることのないように、
小さなウソに更なるウソを塗りたくって、虚像の自分を作り上げていくイリア。
ダイチにどれだけ愛を打ち明けられても頑として受け入れることの出来ないイリアには
封印された過去があることが後半で明らかになり、恋人の裏切りが彼女をここまで変貌させた。

イリアにはかつて大好きになった男の人がいた。
その人は人生で初めて「君が大切なんだ」って言ってくれた。
でも彼はイリアを利用するだけ利用して、突然イリアの前から去っていった。
思春期の女の子にとってそれは論理的にも感情的にも受け入れられない異常事態であり、
イリアはそのトラウマに悩み続け、情緒不安定な精神状態に陥ってしまう。

揺るぎない愛が欲しい。どうせなくなる愛ならば最初からないほうがマシだ。
一度繋いだ手はもう一生離されたくない。徹底的に殺菌された永遠の愛を築きたい。
愛することが怖い。愛されることも怖い。でも愛は欲しい...
愛情に対する歪んだ原理主義がイリアを心のテロリストへと化身させ、
真実の愛が遠のいていく。嗚呼、なんと哀しき恋愛模様なのだろう。

そんな迷えるイリアをあなたの手でぜひ救ってあげてほしい。
愛を見失っているティーンエイジャーに捧げる一冊。

ISBN 978-4-10-132971-0君たちに明日はない
垣根 涼介
新潮社 2007-10-01
[新潮文庫 か-47-1]

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学生の時はラディカルであっても社会に出ればなるべく平穏に生きていたいものだ。
遊びを優先するために授業への出席を放棄しても直ちに卒業に影響してくることはないが、
理由なしに会社へ出勤しなかったらそれはクビにも関わってくる一大事となる。
つまり社会人になると素行不良は生きることとリアルに直結してくるのだ。

ただ社会人が実に理不尽なのは、一生懸命働いてもクビになる可能性があることであり、
いくら業績が絶好調な企業と雖も、絶対に解雇されないという保証は決してない。
誰だって好き好んでクビの二文字を突き付けられたくなんてないが、
もし不幸にも「おまえはクビだ」と切り捨てられたとき、あなたならどんな思いに苛まれるだろうか。

日本の労働基準法ではやみくもに指名解雇することが禁じられている。
なので"クビキラー"は巧みな話術でそれとなく自己都合退職を唆すことになり、
「新しい可能性に挑戦してみませんか」との美辞麗句でトドメの一撃を射していく。
とは言いつつも内容は"社会的死亡宣告"そのものであり、
告げられた立場の人間からすると冷静さを失って憤懣も募る一方だ。

どうしてオレ?あれだけ働いていた自分がなんで辞めなきゃいけないの?

本書はクビ切り請負人である主人公が様々な企業のリストラを手掛け、
そこで出会う人間たちとの繊細な心の駆け引きを描いた人間ドラマだ。

「日本ヒューマン・リアクト」というリストラ代行会社に努める村上真介は
イケメンチックな容貌とクールな思考を併せ持つ30代半ばのサラリーマン。
そんな一介のリーマンに過ぎない真介が名だたる大企業のクビキラーとして
数十人単位を豪快にリストラしていくわけだが、これほど非人道的で酷な仕事はない。

それでも真介はこの仕事に誇りを持ち、やり甲斐も感じている。
もちろん自分がやっている行為に対しての疑問がないわけでもないが、
人間の最もデリケートな部分が露呈されていく仕事だけに、
人生経験を積むという観点から見れば最高の職場であろう。

そんな真介を支えるのが8つ年上の芹沢陽子だ。
もともとは真介が面接をしたリストラ候補者の一人であり、
危うくクビを切られる寸前まで追い詰められたものの、
ひょんな事から真介と逢瀬を楽しむこととなり、今では恋人の関係となった。
(→「File 1. 怒り狂う女」参照)

そんな陽子との戯れとリストラの現場風景を交叉させて物語は展開されていく。
面接される立場の人間からしてみれば、真介=犯罪者と断じて良く、
本書でもこれ以上考えられない希望退職の要件を真介から提示されているというのに、
真介に悪態をついて頑として最後まで食い下がるリストラ候補者が頻繁に登場する。

素晴らしい製品を作っているとの自負はあるが
部下を管理する能力に決定的に欠けている主任のケース。
(→「File 2. オモチャの男」参照)
面接者が実は真介と高校時代の同級生で、
同級生の人脈が結果的に面接者を救い出すことになるケース。
(→「File.3 旧友」参照)
家業を継ぐのか彼との結婚をとるのか仕事を続けるのか...
30を目前にして自分の将来について思い悩む女性社員のケース。
(→「File.4 八方ふさがりの女」参照)

それぞれの人たちにそれぞれの人生がある。
かげがえのない家族がいて、一度きりの未来があって、
恵まれた給与と身分を永久保証してほしいと誰もが願うばかり。

全員が勝つということが自然界の法則ではあり得ない以上、
厳しい社会を勝ち抜くためには誰かに犠牲を強いなければならない。
それが綺麗事を抜きにしたこの世の中の摂理なのだ。

そういった絶望的なテーマを扱っているにも関わらず、本書を貫く空気は終始明るく、
だからといってコメディタッチすぎないのも本書の魅力的なポイントであると言えるだろう。
今日も会社でがんばるあなたにぜひ捧げたい一冊だ。

ISBN 978-4-10-136127-7海峡の光
辻 仁成
新潮社 2000-03-01
[新潮文庫 つ-17-7]

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小学校は現代人が経験する最も強固なムラコミュニティだ。
クラスメイトは近所の顔見知りで、学校外の生活でも深く関わり合っているし、
毎時間教壇に立つ教師はクラス内で絶対的な権力を握る"教祖"でもある。

それだけに子ども達は一挙一動に細心の注意を払いながら行動しなければならない。
なぜならばクラス内で自分に覆い被さる「恥」は瞬く間に親や近所へと知れ渡り、
"教祖"である教師は「恥」の総量で成績という名の"品質"を査定するからだ。

すると子ども達の間で教師の査定をいかに有利に動かすかという狡猾なインセンティブが働く。
優等生の仮面を被って聖人君子になりきることは現代の学校では高評価を得やすいし、
他の誰かを貶めることによって相対的に優位な立場へ回り込むのもベストな方策だろう。

大人の世界ならば利害や法の網によって理性にブレーキが掛かる。
だが子ども達にとってそういった大人の事情は全く意味を成さない。
彼らにとっての全世界とはクラスであり、世界地図は町内地図とイコールなのだ。
だからこそ集団の和を乱すのを恐れる余りに、時として倫理を投げ捨て暴走してしまう。

本書に登場する主人公「斎藤」の子ども時代もそういった陰湿な暴走に苦しめられた。
転校してきた優等生である「花井」はクラス内の自分の地位を確保するために、
ターゲットを斎藤に絞ってクラスメイトの心理を巧みに利用しながら冷酷にいじめていく。
決して自分で手を下さずに間接的に制裁を加えていくのが実に優等生らしいいじめ方であり、
クラス内で模擬裁判を開いて精神的に追い込み、斎藤の人間性を崩壊させたこともあった。

また斎藤以外のクラスメイトには花井の好感度が非常に高く、
クラスを統括する担任教師も何の問題のない優等生として花井に太鼓判を押していたが、
いくら周囲の評価が高かろうが斎藤だけは本当の花井の姿を見抜いていた。
野良猫を餓死させようとし、倒れた老婆を見殺しにし、
世間の眼が届かないところでは暴虐の人間性を顕わにしていた虚構の優等生である花井を...

そういった生々しい傷は大人になっても癒されることがなく、むしろ傷口は深まるばかりだった。
まるで全知全能の神をも超越する存在として花井は常に斎藤の脳細胞の中に君臨し、
ふとしたことでトラウマとして現れて、重苦の荒波へと自分を陥れていく。

やがて立派な社会人として成長した斎藤は青函連絡船の客室係の職に就くことになる。
が、青函トンネルが開通する影響で青函連絡船の未来にも翳りがちらつき始め、
それを見越した斎藤は将来を憂いて職を辞し、今度は函館で刑務官の職を得た。

そこで出会った囚人がかつて斎藤を苦しめ続けた花井だったのだ。
あの頃と同じように刑務官たちに対しても優等生を演じ続ける花井。
しかし今の自分は昔と違って花井を掌握できる立場にいる。
思う存分に権力を振り翳すこともできるし、気の向くままに屈服させることだって容易だ。

それでも斎藤はトラウマの代償として花井という人間を蹂躙することはできなかった。
逆に花井の存在が日に日に大きくなっていくことが実感され、
十数年の時が経とうとしているのに斎藤は花井の存在に脅威を感じていたのだ。

「私は彼のまるで詩でも朗々と読み上げるような口ぶりから、
 自分が過去に苦しんだ日々の記憶を思い出してはそっと奥歯を噛み締めた」 (p107)

まるで独房にいる花井が刑務官で、自由が保障されている自分こそが囚人...
そんな逆転した関係性は斎藤を苦しめ続けた"闇"そのものであり、
斎藤の人生を捕らえ続けた暗部が生々しく照射されている。

暗闇に佇むとどんなに微細な光でも視認することは出来るが、
光で包まれた世界にどれだけ光が自己主張をしてもその光がどこにあるのかまではわからない。
タイトルの『海峡の光』に込められた意味が最後まで読むと自然と明らかになってくるが、
その意味を知った瞬間、私は身震いを止めることができなかった。

それほどプロットが練りに練られていて、純文学の真髄が味わえる名作と言えるだろう。
純度の高い文章と共に二人の間に底流する体温をぜひみなさんにも感じとっていただきたい。
漆黒の闇がどこまでも終わることなく人生を支配していく条理に無情さを抱きつつ。

ISBN 978-4-10-113311-9官僚たちの夏
城山 三郎
新潮社 1980-11-25(改:2002-03-15)
[新潮文庫 し-7-11]

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俗世に生きていると何かに対して妥協せざるを得ない機会に遭遇することが多い。
こういったときには集団の論理が働くため、たいていは「個」を押し殺すことになるのだが、
それでも「筋を通す」ことのできる人間になりたいものだと常日頃から実感している。

ただ筋を通すことには大きな危険が伴う。
時には人生において取り返しのつかない結果にも繋がりかねない。
だけども筋を通さねばならない時に筋を通さないと「私」が「私」を許さないだろう。

さてここでふと考えてみた。
霞ヶ関に蠢く官僚たちは果たして筋を通しているのだろうか、と。
逮捕された防衛省の某事務次官は筋を通すことから逃避し続けた。
天下国家よりも大事なのは自分と身内とカネであり、国民なんて蚊帳の外...

悲しいながらもこういった官僚が他に後を絶たないのが現実だ。
こう不祥事が続発してしまうと官僚はみんなけしからん輩なのかと勘ぐりたくもなる。
しかし官僚にも古き良き時代があった。
筋を通して、正攻法で政策を立案し、天下国家を語り尽くした輝ける時代が...

本書は高度経済成長を牽引した通産省を舞台に繰り広げられる物語で、
明日の日本を夢見て官僚たちが繰り広げる熱き人間ドラマは城山三郎の真骨頂だ。
官僚と政治家が権力をめぐって死闘する姿がダイナミックに描かれていて、
人間の内部に潜む様々な欲と葛藤が文体に抉り出されている。

主人公の風越信吾はエリート街道をひた走る"ミスター・通産省"。
「人事の風越」との異名も取り、人物に関する情報はたとえ小さなものでも見逃さない。
国家のために個人を没することは当然であるという信念を持ち、
余暇に楽しむ同僚を軽蔑し、無定量・無際限に職務に打ち込んだ。

そういった一面から風越はキャリア官僚の保守本流とも評価できるが、
一方で風越は官僚とは程遠い気質も同時に持ち合わせていた。

たとえ相手が閣僚だろうが大物財界人だろうが絶対に自分から頭は下げない。
挑発的とも言える歯に衣着せぬ言動は時に政治家を激怒させ、
権益が衝突する権力者たちからは常に煙たがられる存在であったのだ。
丸く収めるという日本的な行為が風越の脳内にはインプットされておらず、
保身のことを度外視して上司や政治家にひたすら楯突いていた。

風越の周囲には様々なタイプの官僚たちがいた。
「木炭自動車」と呼ばれ、一度火がつくと止まらない庭野。
「潤滑油」と呼ばれ、灰汁の強い風越でも慕っていた鮎川。
秀才だったが病に伏し、フランスへ飛ばされてしまった牧。
...作品中、彼らのポストはめまぐるしく変化し、
やがて風越も事務次官へ王手をかける企業局長へと昇進していく。

そしてハイライトとなるのが「指定産業振興法」成立に向けての攻防だ。
外国からの脅威に晒され、終わりなき過当競争に明け暮れる日本企業を護るために
国としては行政指導ではなく行政法として強力に推し進めていきたい。
そうしないと日本の産業は廃れて、やがて没落していくハメになってしまう。
まさに 「ひよわな日本企業を一人前になるまで温室の中で保育したのが通産行政」 (p346)
と言われる所以である。このスタイルが日本の高度経済成長の屋台骨を支えた。

なので振興法という名がついていても実質は保護法であり、
産業界からの反発も強く、また政党のバックアップも思うようには得られなかった。
それに風越の不器用さが仇となり、根回しも思い通りに進まない。
通産省の威信をかけて、省内一丸となって全身全霊で法案成立に尽力したが...

物語の中心となる1960年代は日に日に豊かさを実感できる時代であった。
欧米に追いつけ追い越せで経済成長が続き、人々もリッチな未来のために勤勉に働き、
昔気質の官僚もまだまだ現役で、省内にも何かを成し遂げようという気概が溢れかえっていた。
だからこそ官僚たちは身を捨ててまでも仕事に没頭できたのかもしれない。

翻って現代を鳥瞰してみると、経済は停滞し、ただ経済成長をすれば是という時代は終わった。
そもそも省内が一丸となって取り組むべきターゲットがもはや存在しない。
通産省は経済産業省に衣替えし、新自由主義の下ではかつてほど権益もなく、
新しい経産行政を構築していかなければならないのに往々にして改革は進まない。

このように閉塞した今の時代に本書を読むと"時代小説"を読んでいるような錯覚に苛まれる。
直球勝負で職務に挑む官僚の姿は過去の遺物でしかなく、
緊張感に満ちた政策過程はまるで架空の国のそれを見ているようだ。

だが日本にもこんなに夢に満ちた時代が本当にあったのだ。
今の日本があるのも通産官僚たちが命を賭けて政策に打ち込んだからであり、
その"魂"は次世代へとしっかり継承していかなければならない。

負けるな官僚!負けるな日本!
夢に燃えた男たちのヒートアップした闘いをあなたへ捧ぐ。

ISBN 978-4-309-40814-9人のセックスを笑うな
山崎 ナオコーラ
河出書房新社 2006-10-20
[河出文庫 や-17-1]

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恋愛はオトコとオンナが織り成す最高級のエンターテイメントだ。
故に恋愛は楽しむものであるし、セックスだってたくさん楽しみたい。

が、現実問題として楽しいばかりが恋愛ではないのも事実である。
"慣れ"は感情の耐性を生み、お互いを知り合えば知り合うほど反発の度合いも増していく。
第三者的な視点から見ればそれらを含めて"恋愛はエンターテイメント"なのだが、
当人同士はそんな悠長なことを言っていられるほどの余裕なんてない。

だけど恋人同士である限り僕たちはセックスを楽しみ続ける。
たとえどんなに心の奥底に有耶無耶を抱えていても、
唇と唇が触れた瞬間、恋人たちは動物へと脱皮を遂げてオスとメスになっていく。
セックスをするということは恋人同士であるというアイデンティティそのものなのだ。
常日頃から人様に(物資的ではなく精神的な意で)笑われないセックスを心掛けたい。

...人のセックスを笑うな!

今回ご紹介する本書は年の差20歳の男女が恋に落ち合うラブストーリーで、
せつなさにせつなさを重ねたような苦い読後感が特徴的な作品だ。
タイトルはストレートであるもののそれほど激しい性描写は登場せず、
全体的にかなりシンプルに描写されていて、所々において著者のセンスも光っている。

主人公の「オレ」は美術専門学校に通う19歳の男の子で、
そんなオレはこの学校で講師をしていた39歳のユリに出会い恋をした。
別に若さを過度に強調しているわけでもなければ、
女らしい芳香を全身から漂わせているわけでもない。
だけどもユリは生徒に人気があり、みんなから「ユリちゃん」と呼ばれ親しまれていた。

ある日、クラスの飲み会の帰りにオレはユリに突然思いを告げられる。
「私、君のこと好きなんだよ。知ってた?」 (p17)
が、自分より恋愛経験が遥かに豊富な39歳の人妻にホイホイと騙される自分ではない。
からかい半分なのだろうか。それとも真剣なのだろうか。

後日、今度は彼女のアトリエに誘われた。
微妙な関係の男女が密室で二人きり...もしかしたらもしかするかもと期待を寄せるオレ。
けれども予想に反してこの日は結局何も起こらず、
空振りのような気持ちでオレはアトリエを後にしていった。

しかし二度目にアトリエに誘われた時、オレはユリとセックスすることになる。
熱情に負けて襲ったわけでも終始リードされたわけでもない。
そんなムードになったから、ちょっと勇気を出してシャツのボタンを外してみただけだ。
それからというもの二人はデートとセックスを楽しむ日々を送っていくが...

年上の女性からすればユリに惚れる主人公のオレは"かわいい男"だろう。
常にユリのコントロール下に置かれ、絶対不可侵な領域にも侵してこない上に、
好きなときに愛を確かめてさえおけば愛は繋ぎ止めていられる。
そして気が向かなければいつでも愛を放り投げることだって出来るのだ。

その余裕さとは裏腹にオレは絶えず自問自答を続け、恋の病と共に煩悶する。
「恋だとも、愛だとも、名前の付かない、ユリへの愛しさがオレを駆り立てた」 (p62)
クラスの女の子との間では決して味わうことの出来ないbittersweetな恋愛。
完熟した大人のキスはとろけてしまうほどに頬が痺れ、
ダメ押しのように脳神経へ降り注ぐ「大好き」の声で再生産される抑えきれない恋情。
言わばオレはすっかりユリの魔法にかかってしまった状態なのだ。

恋人同士の間に浮遊する得体の知れない物質で結ばれるオレとユリ。
その物質を巡って絶えずオトコとオンナの駆け引きに講じる二人の男女。
この小説には恋愛の素敵さと無情さと残酷さが一つに丸ごとパッケージングされている。
そのパッケージを紐解く時、あなたはどういった思いで二人の行動を受け止めるだろうか。

恋愛教科書検定合格の一冊。

ISBN 978-4-06-275845-1庭の桜、隣の犬
角田 光代
講談社 2007-09-14
[講談社文庫 か-88-7]

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結婚して夫婦が一緒に住む意味とは何だろう。
もちろん結婚を経験したことのない私に深くはわからない。
ただ恋愛関係と夫婦関係では意味する性質が違うことは私にもわかる。

夫婦という社会的制度は果たして必要なのかといった議論はとりあえず隅に置いて、
夫婦になると必然的に新しい家族ができ、相手方の親類は自分の親戚となる。
結婚することによって昨日まで赤の他人だった人がいきなり血縁関係に組み込まれ、
これにより戸籍制度が確立されている日本では様々な利害関係が生じていく。

だからこそ夫婦になると様々な"制限"が加えられることになるが、
中でも民法752条の【同居・協力義務】は数ある"制限"の代表例の一つであり、
一緒に住んで協同で営為しないと家族はカタチだけの死に体となってしまうだろう。

一昔前ならば家族に対して明確なビジョンを持つことができた。
自家用車を買って、マイホームを建てて、子どもを産んで...
年功序列と終身雇用が保障されており、
来年は今年よりも確実に豊かになるといった経済成長神話があった頃は
幸福な生活を夢見てひたすら人生のコマを邁進していけばそれで良かった。

だが今の時代は違う。家族間の繋がりが薄くなり、将来へのビジョンが不明瞭だ。
仕事的にも一寸先は闇のこの時代。未来に何が起こるかなんてわかりやしない。
子どもの頃と違って夢なんて特に何も持てないし、人間関係もダルいだけだし、
幸福の定義すらもわからない。じゃあ一緒にいる意味って...??

今回ご紹介するこの小説は結婚5年目で子どもがいない30代半ばの夫婦が
日常で起こる様々な出来事を通して"夫婦が一緒にいる意味"を模索していく作品だ。

宗二は都内の会社に勤めるごく普通のサラリーマン。
たまプラーザに在るマンションを35年ローンで購入し、
専業主婦である房子と共に暮らしている。

二人の出逢いは上海でのツアー旅行で、気がつけば二人はゴールインしていた。
結婚してからも特にこれといった生活上のトラブルはなく、
今でもお互いを「そうちゃん」「ふさちゃん」と呼び合うほどで夫婦仲も悪くない。
ただ何かが足りない。何かがおかしい。何かが夫婦らしくない。
夫の残業が重なって二人の間に見えない心の行き違いが生じ、
房子も昼間は実家へ頻繁に帰るようになっていた。

ある日、宗二は会社の近くにアパートを借りたいと突然言い出す。
残業が多く、マンションに帰れない日々が続くので、
精神的なリフレッシュのために仮眠室的な部屋がどうしても必要らしく、
カプセルホテルを借りるよりも金銭的にマシであると宗二は力説する。
でもそれっておかしくない?二人で暮らす意味は何なのさ?
ひょっとして浮気を企んでいるの?私はもういらないの?

だが、そう思う房子も何だか暖簾に腕押しみたいな感がして力が入らない。
二人に何があってもゼロにゼロを足すようで、価値があるとは思えないのだ。
ゼロならばたとえ別れたとしてもゼロはゼロであり、
どうして二人は結婚という選択肢...いや、そもそも結婚って何だろうと房子は思い悩む。
そして二人の身の回りにさざ波のような出来事が次々と起こり、
物語は思いもかけない展開へと進んでいく...

テーマは若干メッセージ性が強いものの、文体は比較的コミカルに綴られているせいか
作品自体に親近感を抱くことができ、ストーリーにもぐいぐいと引き寄せられていってしまう。
読み心地の良さの裏に潜む"リアリティ"も実に意味深な作品だ。

ある登場人物が最後に呟くこの言葉が胸に響く。
「あのねえ、結婚というものはひとりとひとりのことなんじゃなくて家族全体のことなのよ」 (p287)

先ほども書いたが、結婚することによって様々な利害関係が生じ、
冠婚葬祭や季節の贈り物など儀礼的で煩雑なイベントへも逐一コミットしなければならない。
昔と違ってプライバシーがある程度確立された現代社会では
血縁によって行動が雁字搦めされることはあまり気持ちの良いものではないだろう。

それでも大多数の人々は結婚を目的として人生のプランを立てていく。
なぜならば「家族」は人間にとってかげがえのない心の故郷であるからだ。
いかなる物にも代替不可な家族は、なんやかんや言いながらも素晴らしいものなのである。

良い一日ばかりではない。悪い一日だってたまにはあるだろう。
夫婦が一緒に暮らす理由を探ることは一週間後の天気を探るようなもの。
それでも探りたいあなたにこの一冊を薦めたい。

2008年4月

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