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ISBN 978-4-480-06416-5友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル
土井 隆義
筑摩書房 2008-03-10
[ちくま新書 710]

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「KY」という新語が瞬く間に日常会話へ浸透していったことからもわかるように、
今の社会における人間関係では「空気を読む」スキルが何よりも求められる。

空気を読めない=KYな人はまるで触法行為を犯したかのように周囲から非難され、
リラックスして楽しむはずの飲み会も空気から取り残されることを思うと気が気でない。
もし集団から浮いてしまったら排除の論理が働いてKYの人へと懲罰が下されることになるだろう。
円滑な人間関係を築くためにはいかに空気を読むかという心理戦が非常に重要であり、
現代を生きる若者たちにとって「空気を読む」ことはまさにサバイバルと直結しているのだ。

ではなぜ若者たちはこうも過剰に空気を読まなくてはならないのだろうか。
病的なほどのピア・プレッシャーが人間関係を窒息させるように覆い尽くし、
空気を読むことに疲れて生きづらさを訴える人たちもこれほどまでに多いのに、
彼らはそういった偽りの人間関係から抜け出すことが出来ずにむしろ依存してしまう。
そこには現代社会が抱える深刻な病理が潜んでいた...

本書は現代の若者たちが作り出す人間関係の特徴を社会学的な見地から分析し、
「空気を読む」世代が宿命的に併せ持っている悲劇的な病巣について鋭く迫っている。
タイトルにある「友だち地獄」という刺激的なフレーズにすべてが物語られているように、
今や若者たちにとって友だちとは安住の存在ではなく地獄の存在になりつつあるのだ。

いじめ,リストカット,ひきこもり,ネット自殺...
本書では若者たちを取り巻く様々な社会現象が豊富な事例と共に取り上げられており、
これらを語る上でキーワードとなってくるのが本文中に諄いほど登場する『優しい関係』だ。

ここで『第一章 いじめを生み出す「優しい関係」』からそのキーワードの本質を捉えていきたい。
学校裏サイトに代表されるような昨今のいじめは従来のいじめとはベクトルを全く異にしている。
従来のいじめは強い者が弱い者を肉体的・精神的に陵辱するという単純な構図で、
のび太とジャイアンのような関係を頭の中に思い描くとわかりやすい。
そのため教師は加害者を叱責し、被害者をケアすることでいじめに対処することが出来た。

ところが最近発生するいじめはほとんどのケースがこういった構図にならないのだ。
加害者と被害者の関係は極めて流動的で、誰がいじめのターゲットになるかは運次第。
大人社会と同様に生徒間でも「空気を読む」スキルが要求され、
空気を読めない(というよりも同質でない)人たちには容赦なく鉄拳が下ることになるのである。

一瞬気が緩んでしまって場違いな発言をしてしまったならばそれは瞬時に"いじめGO"サインと化し、
たとえクラスの人気者であったとしても容易にいじめの被害者へと転落してしまう。
なので生徒たちは自分たちが標的にならないよう何時も過度に気を遣い合わなければならない。
彼らにとって誰かをいじめることは根底に憎悪の感情があるというわけではなく、
「人間関係の重さを軽くするためのテクニック」 (p22) にすぎないのだ。
「いじめの主導権を握っているのは、いわば場の空気」 (p22) なのである。

そこで身を護るためにも生きる知恵として『優しい関係』が必要となってくる。
異質なものが排除されるわけだから、相手と価値観さえ同調させていればとりあえずは安心だ。
相手の傷口に触れず、衝突を避け、行動も一緒。とにかく友だちと異質なところがあってはならない。

「相手の事情を詮索して踏み込んだりしない、あるいは自分の断定を一方的に押しつけたりしない、
 そういった距離感を保つ「相手に優しい関係」とは、ひるがえってみれば、
 自分の立場を傷つけかねない危険性を少しでも回避し、
 自分の責任をできるだけ問われないようにする「自分に優しい関係」でもある」 (p46)

しかしそういった偽りの友だち関係には当然の如くフラストレーションが溜まっていく。
ならばそんな関係を断ち切って、他の人と親しくなるかあるいは独りになるかすれば良いではないか、
と思ったりもするのだが、それが出来ないのも若者たちの病理現象だと著者は指摘している。

自己肯定感が脆弱なために、常に相手からの承認がなければアイデンティティが維持できない。
どうして特に意味もないケータイメールを一日何回もやり取りしたり、
自己プロモーションのようなブログ・SNS日記に強迫的にコメントをつけたりするのかと言えば、
"人とつながっている"という状態が自己肯定感を充足させ、孤独を紛らわせるからだ。

他にも『第三章 ひきこもりとケータイ小説のあいだ』や
『第四章 ケータイによる自己ナビゲーション』なども大変おもしろい考察で、
今を生きる同年代の人々にもぜひ実際に手にとって読まれることをオススメしたい。
最後に本書で最も印象に残ったこの言葉をここに記したい。

「腹を割って話しあい、互いの人間性を高めていけるような対人関係を築く能力ではなく、
 いろいろな交渉事をスムーズに進め、場の空気を敏感に読みとって迅速に対処できるような
 対人関係の能力が、さまざまな局面で問われるようになっている」 (p198)

お茶を濁しながら無難に人脈を拡げ、ビジネスライクな軽薄コミュニケーションで絆を紡ぎ、
同じような価値観を持っている人たちと空気を読み合いながら友だち関係を築いていく...

だけども少しでも自我をぶつけ合ったほうが人間関係は深化していくのではないか。
また同質な人たちと群れるのではなく、いろんな人たちと触れ合った方が成長していくようにも思える。
「私は私だ」という堂々たる個の強さがあればKYなんて怖くない。
むしろ空気を読み合う人たちの方が滑稽ですらある。そんな強さを持っていたいものだ。

友だち地獄かもしれないあなたに贈る一冊。

ISBN 978-4-16-660620-7ラブホテル進化論
金 益見
文藝春秋 2008-02-20
[文春新書 620]

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世代が違えば物事に対する価値観もたいてい異なるものだが、
ラブホテルほど今と昔でイメージが激変する場所もないだろう。

昔のラブホテルはエッチするために存在する言わば"連れ込み宿"で、
回転ベッドや鏡張りの浴室などワイセツ度100%の部屋が発情期の男女を扇情させていた。
当然その存在はPTAから目の敵にされ、情報誌に特集が組まれることもなく、
人前でラブホテルの話題を出すなんてもってのほかという時代が続いていく。

ところが現在は違う。ラブホテルは"ラブも出来るエンタメスポット"へと変貌したのだ。
部屋はシティホテルでいうスウィートルーム並の豪華さでアメニティも超充実。
大画面で映画も鑑賞でき、最新ゲームも楽しめて、カラオケだって歌えちゃう。
マッサージでリラクゼーションした後は無料サービスの豪華な食事でお腹も満足...
(もっと言えばサザンのライブが常備されているラブホテルも私は知っている!@大阪某所)

日常会話でも当たり前のようにラブホの話題が行き交い、
私たち若者の感覚からすればラブホ=エッチをする場所ではもはやない。
まさに 「ラブホテルは、決して日陰の存在ではなく、堂々たる日本の文化」 (p17) であり、
そんなラブホテルの知られざる秘密を検証してみせたのが本書だ。

著者は博士後期課程在籍中の現役大学院生で、大学院ではラブホテルを研究されている。
しかも大変美人な方で、帯にある金さんの姿を見てクラっときた男性諸氏もいるに違いない。

さて 「ラブホテルは、常に目新しいものを追い求める流行産業」 (p28) とあるように、
昔からラブホテルにはその時代の人々の憧れが反映されてきた。

テレビが高嶺の花だった時代には全室にカラーテレビを完備し、
海外旅行が憧憬の的だった時代にはホテル名に海外を連想する名前が付けられ、
(○○エンペラーや○○チャペルなどのホテル名が多いのはその名残)
現在ではキレイになりたい女性の憧れがアメニティとして洗面所に大量に反映されている。

また"ラブホテル必須アイテム"と題して、
ラブホテルでよく見かける摩訶不思議な物体の謎に迫り、
歴史的な考察を加えている箇所もおもしろい。
性欲に踊られる人間の性というのは実に哀愁に満ちている。

さらにラブホテルであってラブホテルでないラブホテルが多い事実も非常に興味深い。
新風営法でラブホテルが明確に定義され、ラブホテルにかなりの制限が加えられた。
回転ベッドが消えたのもこの頃で、ラブホテルで認可されてしまうと経営に支障が出かねない。

そこで妙策としてほとんどのホテルが"ビジネスホテル"として申請する現実があるのだ。
そしてビジネスホテルとして認可されたらすぐにラブホテルへの改装が始まっていく。
なのでどう見てもラブホテルなのに法律上はビジネスホテルであるところが結構多いのである。

よってラブホテル建設時に住民と係争することになるポイントがここなのだ。
ビジネスホテルとして認可されているにも関わらず実際に建つのはラブホテルであり、
取消訴訟を起こしても違法ではないので結果的に施工主が勝つことになる。
(実際は行政法の法理を駆使して自治体側が建設を取り消すこともあるのだが)

つまりラブホテルと一般ホテルの境界線が法律的には曖昧となっているのだ。
また最近ではシティホテルが"休憩"とほぼ同義のデイユースプランを導入したり、
二人でイチャイチャできる個室付きのレストランなどが繁華街に登場したりなど、
ラブホテルの主権を脅かすトレンドも徐々に市民権を得つつある。

となってくるとラブホテルに未来はあるのだろうか。
このまま多機能路線を歩んで五つ星ホテルを凌ぐサービスを提供することになるのか、
それとも原点回帰として布団と浴室だけを部屋に設置したシンプルな内装になってくるのか。
欲望が細分化された現代、ラブホテルが岐路に立たされていることは間違いない。

「Walker」や「一週間」「ぴあ」では頻繁にラブホテルが特集されている。
「ラブホテル=セックスという考えから、ラブホテル=デートという意識に変わり、
 カップルにとってラブホテルをより身近な存在にしたのは情報誌」 (p191)

とあるように、カップルにとって今やラブホテルは遊園地と並ぶデートスポットだ。

故にラブホテルは決してアングラなスポットではないし、
ラブホテルがこの国に存在することを私たちはもっと誇りに思わなければならない。
なぜならラブホテルは"堂々たる日本の文化"なのだから。

そうだ ラブホテル、行こう。な気持ちにさせてくれる一冊。

ISBN 978-4-08-720406-3米原万里の「愛の法則」
米原 万里
集英社 2007-08-22
[集英社新書 406F]

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どんな時でもユニークな振る舞いが出来る人というのは魅力的な存在だ。
ユニークという言葉はただ単におもしろいという意味を含有しているだけではない。
言うならばユニークとは”知的なおもしろさ”であり、
会話の中で自然と発露できる者こそが大人たる条件であるといって良いだろう。

しかしあまりにインテリジェンスになりすぎると今度は逆に嫌味と捉えられてしまうので、
そのバランスには時と場合に応じて注意を払う必要がある。
ロシア語同時通訳者である米原万里さんはそのバランスが天才的に取れていた。
残念ながら昨年5月に卵巣がんで永眠されたが、
彼女のユニークな視点や語り口は今でも人々の心に深く刻み込まれており、ファンも多い。

本書は没後に出版された最初で最後の講演録集であり、
闘病中に催されたものを含めて4回分の講演が収録されている貴重な一冊だ。

まず最初の演題は本書のタイトルにも冠されている「愛の法則」。
高校生相手に話された講演にも関わらず容赦なく下ネタが飛び交っているのが著者らしくておもしろい。
(ご本人はこの内容を下ネタと評されているが、それは照れ隠しの一つであり、
 世間一般に蔓延る野獣の基準からするとこの講演はまだ上品な部類に入る)

世の中のあらゆるオトコは
【A:ぜひ寝てみたい男 B:まあ寝てもいいかなって男 C:金をもらっても寝るのは嫌な男】
に完膚無きまで分類され、女史に言わせれば90%のオトコはCに該当するという。

この事実から著者はどんどん話を膨らませていき、
どうして人間にはオスとメスがいなければならないのかという究極の命題に辿り着く。
「男の存在価値そのものが性生活にある」 (p52)
と最後に言わしめるまでのスピーディーな論旨展開は非常にユニークかつ説得力があり、
これはみなさんにもぜひ実際に本書を読んで体感していただきたい。

次はこれも高校生向けに話された「国際化とグローバリゼーションのあいだ」。
「国際化」とその訳語であるはずの「グロ-バリゼーション」は実は全く正反対の意味で、
このことを混同している日本人の迷走振りについて舌鋒鋭く迫っている。

国際化というとなんとなくハイカラなイメージがあって、
その言葉を唱えるだけで活動の場が地球規模に拡がっていくかのような認識を抱くが、
日本人が使う国際化という言葉はとどのつまりアメリカ化と同義なのではないか。

「日本は世界というものをとらえるときに、ほんとうの世界ではなくて、
 日本にとって身近な世界、最強の国を一つ定めて、
 そこの文化を一心不乱に取り入れようとする傾向がある」 (p80)

遥か昔の日本人にとっての国際化とは中国の文化を取り入れることであり、
江戸時代においての国際化は蘭学を学んでひたすらオランダに羨望の目を注ぐことであった。
そんな”長いものには巻かれろ”的メンタリティの現代のお相手は言うまでもなくアメリカである。

インターネットで流れる情報の約8割は英語で記載されていて、
英語を使えるようになりさえすればイコール国際化なのだという風潮が漂っているが、
それは本当の意味での国際化ではなくむしろ幻想なのだ、と警鐘を鳴らしている箇所は興味深い。

この他にも講演録は「理解と誤解のあいだ」「通訳と翻訳の違い」と続いていく。
どちらの講演も自身の通訳経験を内容にふんだんに絡めていて、
通訳を日常生活でのコミュニケーションと見立てて説明している場面に至っては
遠い世界だと思いがちな同時通訳の世界をグッと身近に引き寄せてくれる。

「通訳だけでなくコミュニケーションというものが、
 そのように非常に不確実なものであって、
 最終的に完全に一致するなどということはあり得ないという、
 一種の諦念というか、覚悟を持つべきだと思っています」 (p155)

まだ読みたい、もっと読んでみたいとの思いが最高潮に達した瞬間にページは終わりを告げていた。
この続きをもう二度と読むことができないとなると何とも残念な気持ちでいっぱいになるが、
博覧強記という言葉が何よりも似合う人がこれほどまでにユニークな講演を遺していたのだ、
ということはいつまでも忘れないでいたい。

愛に燃ゆる一冊。

ISBN 978-4-08-720405-6王様は裸だと言った子供はその後どうなったか
森 達也
集英社 2007-08-22
[集英社新書 405B]

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服を着ていると思い込んでいる王様が裸のまま颯爽と街を歩いていた。
「あれ?王様が小島よしおになってるじゃん!!」
人々は心の中でそう思いつつもこの事実を王様に進言しようとする者は誰もいない。
裸であることを指摘することによって王様に恥を塗ってしまったら、
"権力"という名の魔物に完膚無きまで寸裂されるのは他の誰でもない自分だからだ。

だからこそ人々は裸である事実を胸中から払拭するように過剰に王様を持ち上げ、
持ち上げられた王様はますます有頂天になって事実を知らぬままに暴走を始める。

しかしたった一人だけ空気が読めずに事実を王様に言上してしまった。
その犯人は大人社会の汚れたバランスゲームを知らない純真無垢な子どもだ。
「ねーねー王様、裸なんだけど恥ずかしくないの??」

...これがアンデルセンの童話『裸の王様』の有名なあらすじである。
実際にこの物語を幼少期に読まれた方もたくさんおられることだろう。

しかし『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』までは原作に書かれていない。
「へたこいた~」と言いながら王様が突然踊り出して無罪放免となるのか、
それとも即座に五右衛門風呂に入れられて恐怖政治が始まっていくのか。

本書は有名な文学作品(主に童話)を現代風の味付けでシニカルに解釈し直し、
複雑に入り込んだ現代社会に鋭いメスを入れる(©ABC)画期的な一冊である。
コンセプト的には太宰治の作品集である『お伽草紙』に近い。

『お伽草紙』では太宰自身の内省的解釈が極端に目立っていたが、
今回の『王様は裸だと~』では著者がジャーナリストであるせいか、
風刺の矛先が主に社会的な由々しき事象に向けられているのが痛快だ。

『桃太郎』はメディア・スクラム、『瓜子姫』は空気を過度に要求する社会、
『ふるやのもり』が先制攻撃論の矛盾、『ねこのすず』が戦争と恐怖国家...
どの物語にも斜め45度の角度から透徹する著者特有のリアリズムが何とも言えぬ味を出している。

さて私は冒頭の『裸の王様』を読みながらある国の王様について考えを巡らせていた。
その王様は苦労を知らないお坊ちゃまで、王様になるや否やお友達ばかりを部下に従えた。
「王様だから偉いのだろう」と思った国民は最初こそ王様を熱烈に支持していた(らしい)が、
だんだん王様の化けの皮がはがれていき、やがて国民は王政にはっきりとNOを突き付ける。

しかし王様はどこまでも"裸の王様"だった。NOの意味がわからず周囲に耳を貸すこともない。
ついには自暴自棄になり職を放り投げたまま無責任に雲隠れしてしまった...

著者ならばこの王様をどのように評すだろうか。そしてどんな物語を作るだろう。
この王様は政策云々以前に"能力"が決定的に不足していた。
能力不相応なまま王位に居続けることは王様本人にとっても不幸なことであるし、
そんな王様に権力を振り翳されては国民もたまったものではない。

だからこそこの王様を裸にさせた人々の罪は重い。
そして王様はどうして自分がこれほどまでに国民に嫌われたのかの理由を直視すべきだ。
逃げ続けていては何も答えが見えてこないではないか。

ん?王様は裸だと言った国民はその後どうなったか??そこまでは私も知らない。
ただこの話の続きが今後テレビで放映されていくということだけはここに記しておこう。

斜めを向いているあなたに読んで欲しい一冊。

ISBN 978-4-16-660540-8忘年会
園田 英弘
文藝春秋 2006-11-20
[文春新書 540]

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季節外れも甚だくて申し訳ないのだが、今日は忘年会に関する本をここにご紹介したい。
といっても忘年会にて披露する宴会芸の極意について綴られたハウトゥーものではなく、
忘年会を学術的見地から考察していった"史上初"の本格的な試みだ。

忘年会は今やほとんどの国民が何らかのカタチで参加する国民的行事であると言って良い。
しかしその定義は非常に曖昧で、そもそも何を持って忘年会と呼ぶのかが今一つよくわからない。

同じ伝統的行事であるお正月やクリスマスならば性格や風習などが聢りと人々に定着していて、
まかり間違っても成人の日におせち料理を食べたり大晦日にサンタさんがやってくることはないが、
忘年会の場合は日付の縛りもなければ宗教的な性格もない。もっと言えば別になくたって支障もない。

なのにも関わらずどうして日本人は忘年会の魅力に取り憑かれているのだろう。
そんな謎を数多くの文献から歴史的に解き明かしていったのが本書であり、
その考察たるや実に秀逸で完成度は名著の域に達しているといっても過言ではない。

忘年会の起源は室町時代にまで遡る。
当時は「忘年会」という言葉がまだ生まれておらず、意義もはっきりとしていなかった。
(「年忘れ」のために会をするという概念すら当時の人々は持ち合わせていなかった)

その傾向は基本的に江戸時代にも継承されていき、
明治時代になって初めて現在の忘年会の姿へと劇的に変貌していく。
まさにそれは全国民を巻き込んだ 「広範な文化革命」 (p73) であり、
今まで一部の富裕層のみの宴会だった忘年会も徐々に市民権を勝ち得ていくこととなる。

これだけでも丹念に資料を整理して適切な思惟をしていかないと導いていけない結論だが、
本書は背景にも鋭いメスを入れ、忘年会の性質変化についても一考を加えている。

「江戸時代の忘年会が、既存の人間関係を維持させるための集まりだとするならば、
 新しい近代の忘年会は、近代化を急ぐ時代の人々のために、
 人間関係の開拓という役割を期待されていたといえるだろう」 (p56)

士農工商から四民平等へと政策が転換され、同時に人間の動きも流動的となり、
対人関係や経済的地位の安定を図るためには何らかの社会的なファクターが必要となってきた。
そこで最も活用された安定化装置が当時は忘年会だったというわけだ。

しかし女性や子どもを蚊帳の外へ置いて"酒と女"にまみれた乱痴気忘年会が当時の主流であったことも事実である。
そんな中で公然と飲酒をするのはクロだったこの時代の女性にスポットを当て、
男の忘年会に対抗した"女たちの忘年会"について画期的な事実を照射している箇所は見事であり必読だ。
嗚呼 男とはいつの時代もなんと我が儘な生き物なのだろう。

その後、戦中は自粛されたものの戦後は更に忘年会ブームが加速していく。
だんだん忘年会が巨大化していき、地位も単なる宴会ではなく会社にとっての公的行事へと昇格していったのだ。
近年は 「大衆忘年会が「分衆」忘年会へと、豊かな時代にふさわしく変化した」 (p158) ので、
かつてのような社員全員が入り交じってのドンチャン騒ぎはあまり見られなくなったが、
忘年会パワーは部課や人間関係ごとに分節されて未だに健在である。

ちなみに「忘年会は日本独自の行事」という世間でよく聞く風説は全くのウソで、
もともとは中国からやってきて、長い年月をかけて日本流にアレンジされたのが現在の忘年会のカタチとなっている。
また東アジアの漢字文化圏(特に韓国)では日本以上に忘年会が活発である上に、
アメリカだって見方を変えれば忘年会大国であると言えてしまうのだ(詳しくは本書第五章を参照)。

しかしこれだけ時代が変わって、これだけ西欧ナイズされた日本の文化に身を浸していても、
未だに忘年会の会場に和風居酒屋や座敷が大いに支持される現実は興味深い。
忘年会はイメージ的にワインではなく酒であり、ナイフにステーキではなく箸に刺身ではないだろうか。

今年の忘年会に備えて夏から読んでも損ではない一冊。

ISBN 978-4-10-610216-5コテコテ論序説 「なんば」はニッポンの右脳である
上田 賢一
新潮社 2007-05-20
[新潮新書 216]

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生粋の大阪人である私は大阪という街を非常に愛している。
京都に移り住んで3年になるが、飲み会や遊びは出来るだけ大阪でやっているし、
阪急電車で淀川を渡って梅田へ行くときのあの高揚感は何度経験してもドキドキものだ。

さて大阪といっても梅田界隈の「キタ」となんば界隈の「ミナミ」とでは街を包むカラーが全く違う。
「キタ」は洗練されたオシャレな街でどちらかと言えば大阪よりも東京チックな雰囲気なのだが、
「ミナミ」は全く逆でコテコテな大阪ワールドが街全体を覆い尽くしている。
他の地域の方々が大阪と聞いて連想するイメージのほとんどがこの街に集約されているのだ。

たこ焼き屋がたくさんあって、吉本の劇場にお笑い芸人がいて、奇抜で派手な看板がいっぱいあって、
夜になれば串カツ屋から阪神戦のラジオ中継が流れてきて、おもろいおっさんがいっぱいおる...
多国籍的に雑多な感じが街の空気を支配し、行き交う人々のテンションもやたらに高い。
その一方で御堂筋にはブランドショップが建ち並び、高級志向なお店も続々と進出していて、
子どもからお年寄り、貧乏人から金持ちまでありとあらゆる人々が街の魅力に酔いしれる大阪ミナミ。

そんなミナミの魅力を過去から遡って徹底的に解剖したのが本書である。
なにせサブタイトルに「「なんば」はニッポンの右脳である」と言い切っちゃっているところがすごい。
それはちょっと言い過ぎちゃいまっか、と著者へハリセンでツッコミを入れたくもなるが、
読んでいくとあながち嘘ではないということにも気付いてきて、
最後まで読めばミナミの街の魅力に取り憑かれるのは必至だ。

今でこそ西日本最大の繁華街として君臨するミナミも明治初期は一面ねぎ畑だった。千日前に至っては墓地である。
そこから次第に演劇や鉄道や百貨店が出来てきて、ミナミは今のような活気溢れる街へと成長していった。
本書では明治時代から大正、戦争を経て現代に至るまでのミナミの歴史が凝縮されている。
戎橋筋や南海通を歩くと今でも当時から営業している店が伝統と風格を醸し出しているのもミナミの魅力の一つだ。

そして今、ミナミは大きく変わろうとしている。
大阪球場跡地になんばパークスが造成され、マルイと巨大シネコンが高島屋前に合体して現れた。
阪神ファンがダイブした戎橋も近くに観覧車が出来て、道頓堀は今やワールドワイドな観光地である。

そんなミナミの街を発展させていくにはどうしたら良いか---
本書の最後でミナミを代表する企業である吉本興業と南海電鉄の社長が対談しているのだが、
そこで南海電鉄の山中諄社長が口に出した一言がとても印象に残った。

「最近は大阪でも東京ナイズされたおしゃれな街が多くなりましたが、
 ミナミは大阪らしさが今なお生き続けている、なにわ文化が生き続けている街ですよ」 (p172)

だからこそもっとこの文化を守って次世代へ伝えていかなければならない。
最近は東京資本や外資が大阪へ入ってきて、街並みがだんだんと他の繁華街と変わらなくなってきている。
それが悪いとまでは一概に言えないが、大阪には大阪特有の魅力があるわけであり、
それを「まちづくり」に生かしていくことは地域活性化にも繋がっていってサステイナブルな風土を形成していく。

大阪ミナミの未来は如何に。さあ、この本を持ってミナミの街へ繰り出してみよう。

ISBN 978-4-00-431017-4笑う大英帝国―文化としてのユーモア
富山 太佳夫
岩波書店 2006-05-19
[岩波新書 新赤版1017]

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今年のお正月に放送された某テレビ番組で
井手らっきょが全裸になって山本モナに挨拶していたシーンがあった。

このシーンを見て不埒な輩である私は思わず爆笑してしまったのだが、
果たして一体何がおかしくて自分は笑ったのだろうか。
上記の光景を抽象化すれば
「全裸になって挨拶する行為」が笑いを誘うという仮説が成り立つ。

ではこの仮説を別の例を用いて具体化して証明してみよう。
DJ OZMAが全裸になって北島三郎に挨拶したらどうだろうか。
おそらく私は笑わない。というか笑えない。
ということはこの仮説だけでは私が笑った理由を証明することはできない。

ならば対象体の成分にヒントが隠されているのではないだろうか。
井手らっきょという芸人...(以下略)
...このように笑いの理論を追求していくのは一つの科学といってよい。
が、笑いの機序に関しては現代においても大して解明されておらず、
さらに解明されたとしても実用性がないに等しいどうでもいいことである。

それに笑いを理屈で捉えることは精神衛生上も実は良くなかったりする。
かつて上方に桂枝雀という落語家がいて、
天才とはこういう芸人のことを指すんだというほどの爆笑王だったが、
笑いの理論を科学的に追求しすぎてうつ病に陥って自殺してしまった。

今回紹介するこの本は「笑い」を本気で学問した数少ない気鋭の著である。
タイトルにもあるように「大英帝国」、つまり紳士の国イギリスをテーマとして
「笑い」について追求していこうという男気溢れるマニア書だ。

イギリスはアメリカやフランスほど「お笑い」なイメージはないが、
実はありとあらゆるものを「笑い」にする不真面目な国(by 著者)で、
その標的は時に国王や戦争までにも及ぶ。
「笑い」についてのタブーが多い日本とはどうやら事情が違うみたいだ。

本文では主に18-19世紀に刊行された風刺雑誌を用いて、
テーマ毎の「笑いの技法」について解説している。
しかし著者のテンション高い筆跡とは裏腹に笑うに笑えない上に、
何がおもしろいのか理解するのが難解で逆にノイローゼになってしまいそうだ。
そんな私に著者は 「笑う側も要努力」 (p126) ととどめを刺してくる。

論理的に爆笑に至るまでの技法を理解できても、
それが「笑い」につながるかというと決してそうではない。
本の最後のほうになってくると常識が破綻した「笑い」まで登場してきて、
読者は今まで経験したことのないマテリアルワールドへ飛びこんでゆくことになる。
「人は耐えがたい苦しみや悲しみを前にしても笑うことがある」 (p214)
ここから先は精神崩壊な恐い世界なのであえて触れないでおく。

では著者は結局この本で何が言いたいのか。
「私は、個人的には、あまり結論などに執着しない性格であるし。
 それに、途中で何度か結論めいた捨て科白を書いてはおいたので、
 襟を正して改めて結論づけることもないような気がする」 (p227)

どうやら結論めいた論旨は何もないようだ。

しかしあえて私が結論として挙げるならばここの箇所を選ぶ。
「パロディはいつもいつも滑稽な笑いにつながるとは限らない。
 ときにはそれは、自明のこととされる日常性のベールの下に
 隠されてしまっているものを眼に見える場所に浮上させてしまうこともある。
 そのときに、ただ笑うだけの反応しかできないとしたら、
 そこにあるのは精神の貧しさであると言うしかない」 (p163 一部改)

日本の芸人が魅せる「笑い」に対する一種のアイロニーがここにあり。

ISBN 978-4-12-101805-2考えないヒト ケータイ依存で退化した日本人
正高 信男
中央公論新社 2005-07-25
[中公新書 1805]

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タイトルと副題からして本を読まなくても内容がわかりそうな感があるが、
実際に読んでみるとそんな期待を見事に裏切らない。
絵に描いたような論理立て・構成ぶりに思わず苦笑してしまうという
「ケータイ文化論」を一般人向けに易しく咀嚼した一冊。

携帯電話は今や持っていない人を探すのが難しいほど
日本人、いや世界の人々に遍く普及した文明の利器となった。
中でも特に若者のケータイ依存は年々進んでいき、
ケータイは今や単に電話をするための道具ではなく、
音楽を聴いたりクレジット代わりになったりするなど
ライフスタイルには欠かせない存在となっていった...

この事実をネタにすれば社会学から生理学にいたるまで
どんな学問領域を媒介にしてでも話が膨らんでいくわけだが、
著者は自身の専攻の「霊長類研究」をここへ刷り込ませた。
そこは非常にユニークであって特筆すべきことだ。

ただ、その割には学術的な論考があまり成されていない上に
読み物としてもエッセイの延長線上となってしまっているのは
賛否両論が分かれるところだろう。
結局一冊を通して何が一番言いたいのかといったら
要するに「今どきの若者はこれだから~」という説教なのだ。

しかしケータイが齎した文明の副産物の是非については
本書の「霊長類研究」のように様々な視点から検討していく必要がある。
ひょっとしたら今まで全く浮き彫りにされなかった新事実が
学問を媒介にして浮動してくるかもしれない。

「テクノロジーによって生活は快適になった。
 しかしそれは、生活がより「文化的」になることと一致しないのだ。
 それどころか反対に、生活をより「非文化的」にすることもある」 (p122)

「ケータイ文化論」の入り口として本書を取ってみるのはいかがだろう。

ISBN 978-4-06-274955-8鎖国してはならない
大江 健三郎
講談社 2004-12-15
[講談社文庫 お-2-12]

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ノーベル文学賞作家でもある著者が様々なテーマについて
国内外で行った講演を活字化した一冊。

社会科学という現代では動脈硬化を起こしつつもある学問分野を
文学者の視点から鳥瞰する本書は底流に"想像力"を据えている。

例えば「象徴」という言葉を考えてみよう。
この言葉を聞いて日本人がまず思い浮かべるのは
日本国憲法第一条にある日本国の「象徴」についてだ。

しかし「象徴」という二文字に含有された意味を
"なんとなく"はわかっても深く知っている者はそういない。
憲法の起草に関わった者でもそこまでは考えていないだろう。

この二文字が曖昧な定義のまま憲法によって
政治的な思惑で文体化(stylized)され、
そのことが日本人の想像力に決定的な制約を加えてしまう。

「公」という言葉を目にすると日本人はタテの線を思い浮かべがちだ。
しかし上意下達なこの線が日本古来の「公」の概念ではないし、
別にワールドワイドに普遍的な概念でも決してない。
むしろ福澤諭吉は"ヨコのつながりこそが「公」だ"とも説いた。

また「戦後民主主義」を虚妄とする風潮が近年強いが、
仮に虚妄とするならば今の日本はどんな姿で佇んでいると想像できるか。
右に習えの付和雷同で想像力の萌芽に水をかぶせてしまう
今を生きる日本人に本書は警鐘を鳴らしている。

言葉の断片だけを捉え、短絡的に一義的なレッテルを貼ることは
想像するという人間の知的活動から逃避行しているに等しい。

イラク戦争後を巡る情勢が混迷の一途を辿っているが、
この情勢を対岸の火事として捉えるのではなく、
自らの痛みとして捉える、つまり想像することができなければ
「こと」の本質はいつまで経っても見えてこない。

想像力は文学的な範疇を越え、
社会的にも重要なファクターであることは疑う余地もないだろう。

よく考える態度(the prudential)を持つ日本人であるために。
想像力を働かすことのできる人間になるために。この一冊を捧げたい。

2008年4月

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