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ISBN 978-4-334-03423-8高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院
水月 昭道
光文社 2007-10-20
[光文社新書 322]

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「ワーキングプア」が社会問題となっていることは以前にもこのブログで紹介した。
しかしワーキングプアはいわゆる底辺層に限った問題ではなく、
近年では一見そんな問題とは無縁な層からもワーキングプアに陥る人たちが激増している。

その正体とは博士号を取得している「高学歴ワーキングプア」だ。

本書はマスコミではほとんど報道されていない高学歴ワーキングプアの知られざる実態を暴き、
そんな人々を生み出した教育政策を指弾しつつ構造的な病巣に斬り込んだ意欲的な一冊だ。
著者自身が「ポスドク」と呼ばれる”一寸先は高学歴ワーキングプア”という身分に置かれており、
来年春からの身分は未定という崖っぷちさがこの本のリアルさを増幅させている。

さて、現在の日本の失業率は概ね4%前後を推移しているが、
博士卒に限った失業率を見てみるとその値はなんと50%以上にも上る。
医・理系ならば就職口を比較的見つけやすいものの、文系は極めて絶望的で、
文系の大学院博士課程に進もうものならその行為は自爆テロに等しいと言っても過言ではない。

なぜ学歴ピラミッドの頂点を極めた彼らが底辺で生活をするハメになってしまったのか。
本書では大学院重点化政策を強力に推し進めてきた当時の文部省の功罪を追及している。

そもそも昔の大学院は本気で研究職に就きたいと思う学生しか”入院”せず、
教授の裁量一つですべての意志決定が成されていた非常に閉鎖的な空間だった。

しかし1990年代に入ったと同時に当時の文部省と東大法学部は、
「教育の高度化」の美名の下で補助金を餌として各大学にどんどん大学院生を増やしていく。
バブルが弾けて就職氷河期に苦しんでいた学生たちを大学院へ取り込み、
専門職大学院やサテライト教室を作って社会人をどんどん大学院生へ仕立て上げ、
その結果、少子化の影響で大学生は漸減しているにも関わらず
大学院生だけは毎年のように増加するという”ねじれ”現象が起こってきた。

ところが少子化の煽りを受けて教員市場はすでに縮小の一途を辿っており、
さらに大学の教員にはリストラがなく、いつまで経ってもポストに空きが巡ってこない。
民間企業へ就職しようにも博士という学歴が邪魔をして首を縦に振ってくれないのが現状なのだ。

とすれば結果として彼らは構造的にフリーターにならざるを得なくなる。
教員になりたくても絶対数が圧倒的に不足しているのだから個人の努力ではどうにもならない。
研究者になることを夢見て日々勉強を積み重ね、博士号という名誉ある称号まで取得し、
その果てに待っていた職がコンビニのレジ打ちしかないというのはあまりにも醜いではないか。

「博士の専門知識を生かさず、本来得意とはしないような分野で働かせ、
 その能力を眠らせてしまうのは、社会的投資をまったく無駄にしている」 (p136)

第5章「どうする?ノラ博士」ではこういった惨状を打開するための施策が考察されているが、
どれも現実性に欠けていて今ひとつパンチに欠ける。つまり現状を打開するのは難しいということだ。
では一体どうすれば良いのか。博士というシンクタンクを社会にどのように生かしていくべきなのか。
第6章「行くべきか、行かざるべきか、大学院」にその答えが逆転的な発想によって綴られている。

大学院重点化によってそれまで大学院へは進学しなかった層が次々と”入院”したわけだが、
逆に言えばそれは広く社会に門戸が開かれたという証左でもある。
学閥や縁故がモノを言う一昔前のような内輪運営は鳴りを潜め、
実力さえあれば誰だって意中の大学院へ入れる時代が到来したのだ。

が、先述したようにこれ以上の教員ポスト増はもはや望めない。
ならば「教員になるため」ではなく「スキル向上のため」に博士号を取得するのはどうだろう。
日本における修士・博士の価値は現在極めて低いと言わざるを得ないが、
米国ではかなりのステータスであり、会社経営者は全員が経営学博士を取得している。
それに文化立国・日本を目指すためには学術のエキスパート:博士の役割が重要だ。

「博士号は、大学院で学んだ若者が専任教員の口を得るためのキャリアパスとしての位置づけから、
 市民社会における豊かさを個々の市民が実現していくことを間接的に助けうるものとして、
 その姿を変化させていく過渡期に現在あるのかも知れない」 (p191)

もちろんこれには社会全体の意識改革が早急に求められる。
それを実現するためには国のチカラを借りるしかない。
国は過去の国策の過ちを認め、政策を転換すべき時期にきているのではないのか。

「末は博士か大臣か」という言葉が戦前にあった。
博士は憧れの大スターであり、当時は誰もが認めるエリート中のエリートだったのだ。
そんな博士も今や社会からNOを突きつけられる存在…

博士の未来を考える際に読んでおきたい一冊。

ISBN 978-4-87534-732-3ディープ・コミュニケーション 出会いなおしのための「臨床保育学」物語
今村 光章
行路社 2003-07-20

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最近、「mixiやってる?」といろんな人から常套句のように聞かれるようになってきた。

この場を借りて記しておきたいのだが、私は思想上の理由でmixiを一貫して拒否し続けている。
SNSが嫌いというわけではない(大学のSNSでは実名できちんと参加している)。
"mixi"が私にはどうしても受け入れがたい存在なのだ。

ではなぜmixiがダメなのか。あの軽薄なコミュニケーションの応酬が耐えられないのである。
例えば日記を書く。するとマイミクと称される"お友達"から夥しい数のコメントが寄せられる。
その98パーセントは当たり障りのない数行程度のぬるま湯コメントばかりで、否定意見など御法度だ。

そんな明らかに"建前"以外の何物でもないコメントをもらって、何がおもしろいのだろうか。
もっと言えば果たしてこれはコミュニケーションとカテゴライズすることができるのか。

そもそも本当に必要で重要度の高いコミュニケーションはオープンにはしないはずである。
人間関係のコマを一歩進めるためには(知人→友人、友人→恋人)、どうしても濃いコミュニケーションが必要だが、
愛の告白・囁きや喧嘩の仲裁を衆人環視のコメント欄でやる人なんてまずいないはずだし、
大切な友人・恋人とのやり取りはコメント欄よりもプライバシーが守られるメールが基準となるはずだ。

つまりコメント欄で完結するコミュニケーションは誰が読んでも差し障りのない内容に帰結していくのである。
もっと言うならばどうでもいい内容なわけであり(どうでもいいからこそ公にできるわけだけども)、
故にmixi上での日記のコメントというのもとどのつまり"何もない"コミュニケーションと言えるのではないか。
些細な感情や思いなどを文字として半強制的に可視化する必然性は全くなく、空気と同じだからだ。

仮に健康な人に酸素(=空気)を与えたとしてその人は喜ぶだろうか。むしろうざいと感じるのではないだろうか。
しかし病気の人に酸素を与えるとものすごく重宝される。重症であればあるほど酸素は欲される存在となる。

となれば酸素のようなコミュニケーションに安心感を抱いて喜んだり強迫的に欲したりする人というのは
コミュニケーションにどこか充足していない人なのではないか。ディープ・コミュニケーションの欠如だ。
何か明確な目的意識に依拠して書き込むならまだしも、単に流れだけでコメントをつけていくというのは、
実体を伴わぬ虚空の交流であり、そんなやり取りがメインならばコミットしないほうが賢明だと判断し私はmixiを拒否している。

長々と書いてしまったが本題に戻そう。実は本書にもこういったコミュニケーションに関するエピソードが目白押しなのだ。
あえてカテゴリー分けを試みるならば教育学の本ということになるのだろうが、
本書の大部分は著者の体験談を基にエッセイ風に構成されていて、
今どきの若者のコミュニケーションスタイルの特徴が鋭く考察されている。

サブタイトルに「臨床保育学物語」とあるように元々は子どもをいかにして育てるかというのが本書の主旨だ。
が、コミュニケーションの原点に立ち返った大胆な提言をしている箇所が大変おもしろく、
読んだ瞬間から「これはコミュニケーションに革命が起こるかもしれない」と私は惚れてしまった。

それは 「超-言語主義---言葉を超えたところにあるコミュニケーション---」 (p146) の概念である。
みんな自分のことしか考えていないカラオケ、人の話を聞かない教師、ケータイの顔文字メールで感情代用...
本文にもあるように最近のコミュニケーションはボタンの掛け違いがどこか目立って仕方がない。

が、そもそもコミュニケーションは必ずしも言葉と言葉のキャッチボールを必要としない。
人間と人間が交わるわけだから、言葉を超えたところのコミュニケーションだってあるはずだ。
欧米流に言えばボディーランゲージであり、どうも現代の日本人はそれを忘れているのではないか。

そこで建前を払拭したディープ・コミュニケーションの出番がやってくるわけだ。
本書にはいくつかの実験例が収載されているが、ここでその一つをご紹介してみよう。
人と会ったとき、最初に握手を交わしてみる。さらにお互いの眼と眼を見つめ合ってみる。
すると特に異性同士ではドキドキ感が高揚してすぐに顔を赤らめてしまって、
二人は互いに「見つめ合うと素直におしゃべりできない」状態と化す。

が、このプロセスを経るのは意外に大切なことで、
見つめ合った後は不思議とお互い打ち解けてリラックスしてしまう。
なんだかよくわからないが、お互いの心が通じ合えた、
いや、相手に自分という存在を認めてもらったような気持ちになる。
(実際にやってみるとかなり実感できる)
そしてそこから"キレる"空気を生まない安心感が醸成されていくわけだ。

ならばとりあえず手を繋いでみるというのはどうだろう。
相手があまり得意な人ではないときも、勇気を持って手と手を握り合ってみてはどうだろう。
「ディープ・コミュニケーションは、相手の可能性をとことん信じること」 (p210)
どんな人にだって良いところは必ずある。そこで人間性をフィルターに篩に掛けるのではなく、
相手の可能性を信じて、とことんディープ・コミュニケーションしていけば自ずと仲は接近してくるのではないだろうか。

必要以上に人間関係を無菌化して虚空な言葉を電脳空間に舞わせる労力があるのならば、
その労力を誰かとディープ・コミュニケーションすることに注いだほうが絶対に実益になる。
コミュニケーションしているようで実は本当の意味でのコミュニケーションから逃避している...
それが鏡に写されたインターネット・コミュニティの姿のような気がしてならない。

コミュニケーションについてもう一度考えてみたい人に贈る一冊。

ISBN 978-4-00-430712-9学力があぶない
大野 晋 上野 健爾
岩波書店 2001-01-19
[岩波新書 新赤版712]

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2007年4月、文部科学省が43年振りに全国学力テストを実施して話題となった。
近頃「学力低下」問題が各方面で囁かれているが、
その実態を国レベルで一度きちんと調査してみようじゃないか、
というのが今回の全国学力テスト復活の主たる意義だそうである。

学力低下は何もここ数年で急速に教育界を浸食してきた現象というわけではない。
実は学力低下がこれだけ世間を騒がすようになってからはすでに随分と時間が経過しており、
これは「聞蔵」などの新聞記事データベースで調べてみるとより明確だ。
(「学力低下」のワードを含んだ記事は1999年頃より著明に増えている)

しかし学力低下の真の原因は、と問われるとなかなか答えが出てこないのが実情である。
一般に"ゆとり教育"が諸悪の根源としてやり玉に挙がることが多いが、
フィンランドでは日本以上のゆとり教育を実施して学力は今や世界ナンバーワンとなっている。
が、米国では"ゆとり教育"で学力や治安が著しく悪化し、国家が破綻寸前にまで追い込まれた。

このように学力低下問題には数々のファクターや利害が複雑に絡み合っており、
一つ一つ精緻に論旨を展開していかないと結果として感情論に惑わされるのがオチである。
そう惑わされないためにも様々な角度から論じた本を読んでいく必要があるだろう。

本書は2001年に"緊急出版"された教育書で、学力低下問題が様々な観点から論じられている。
時期的にはちょうど新学習指導要領(現在のカリキュラム)の全容が明らかになった頃で、
「円周率は3」「土曜日は毎週休み」「総合的な学習の時間の増加」などの"ゆとり教育"が
将来にいかに禍根を残すかという事実を対談や豊富な資料から導き出した提言書だ。

この本を貫く全体的トーンとしては"ゆとり教育"に極めて懐疑的であり、
今すぐにでも前のカリキュラムに戻せと言わんばかりの論調が大勢を占めている。
しかし考えがいささか短絡的すぎるような気もしないでもない。
教える量を増やせば済むのであればとっくに問題は解決しているはずなのだ。

むしろ問題の本質は"内容"のゆとり云々ではなくて"ハードル"のゆとり云々にあるのではないだろうか。
小学校の算数のテストを例にとって少し考えてみよう。
仮にテスト問題は一桁の足し算しか出題されないとする。これは難しい問題を出さないという意味で"ゆとり教育"だ。
しかし問題数が100で制限時間は2分だとか、その成績がそのまま将来の進学に1点単位で直結するだとか、
コンマ一秒でも早く問題を解いて、コンピュータのような正確さを要求されるとなるともはや"ゆとり教育"ではない。
そういうやたらと制限があって理不尽な競争をさせるのが今の教育の一番の問題点なのではないか。

なので内容を易化させても難化させても構造が変わらない限り抜本的な解決には至らない。
さらに生活様式もここ数十年で確実に変化しており、昭和のやり方を現在に導入しても意味があるとはあまり思えない。
本書の指摘ももちろん一理あるのだが、個人的にもう少し深い考察も交えて欲しかった。

学力低下問題を語る上でまずチェックしておきたい一冊。

ISBN 978-4-06-115478-0大学でいかに学ぶか
増田 四郎
講談社 1966-05-16
[講談社現代新書 78]

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『大学で何を学ぶか』の方向性が見えてきたら、
今度はその目標に向けていかにして学んでいくかを考えていく必要があるだろう。

大学での学びを大きく三つに分けると「座学」と「対話」と「現場」が挙げられる。
「座学」とは従来型の講義のことで、これは本を読むことによってある程度の代替は利く。
しかし「対話」は独りではできないし(できたら怖い)、
「現場」での学びも個人レベルで実現していくにはなかなか難しいものがある。

さらに大学では学びに対する能動的な姿勢が何よりも問われてくる。
能動的な姿勢がなければ大学なんて単なる就職予備校に過ぎない。
それではあまりに人生がおもしろくないではないか。
せっかく大学へ入ったのならば「これだ!」と思えることを研究し尽くしたい...

とは言いつつも自分とフィットする学問に出会うのはそう容易でない。
そんなときにお勧めしたいのが今回ご紹介するこの古書だ。

タイトルは何やら"大学とはこうあるべき的"な教育論の雰囲気を漂わせているが、
実際は本文の半分が著者の学術的自伝のようなものとなってしまっていて、
歴史学の話にも話題が及んだりするなどずいぶんと内容が趣旨から飛躍してしまっている。

なので一つの本としての完成度となると首を傾げざるを得ないのだけども、
著者の実直なお人柄というのが文体にものすごく滲み出ていて、読んでいて私はとても好感を抱いた。
《平凡な老書生》と自らを謙遜し、今まさに学生に語りかけているかのようなアカデミック・マインドは
21世紀となった今読んでも時代を超えて相通ずるものがある。

中でもある雨の日、恩師の教授と歩いていた筆者が「濡れてないか?」と聞かれ、
「はい、濡れてません」と答えると「おまえじゃないよ、本のことだよ」と叱責され、
自分はずぶ濡れになりながらも本に傘をさし続けたエピソードはとても印象に残った。
蔵書は人生そのものだから何よりも大切にしなければならない...
そんな心に響くような名言を吐く教授は果たして現代にどれだけいるだろう。

「わたしは、そうした、名もなく、はでな職業でもなく、
 けれども仕事にやり甲斐をいだいて生きているひとびとに、
 だれかれの区別なく頭を下げたいのです」 (p36)

ただ勉強しているだけではだめだ。もっと深みのある人間にならなければだめだ。
著者はたくさんの人と出会い、様々な学問に触れて自分の世界を築いていった。
『大学でいかに学ぶか』の意味がこの本を読んで初めてわかったような気がする。

ISBN 978-4-334-00361-6大学で何を学ぶか 自分を発見するキャンパス・ライフ
加藤 諦三
光文社 1961-08-20
[カッパ・ブックス 2-33]

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今回は前回とほぼ同じタイトルの書籍をご紹介したい。
隅谷三喜男『大学でなにを学ぶか』が教壇から生徒に教え諭すような教育論的な本だとすれば、
今回ご紹介する加藤諦三『大学で何を学ぶか』はどちらかというと人生論的な要素が強い本だ。

大学生活というのは天使も魔物も犇めく「なんでもアリ」な世界である。
それだけにある程度のセーブ機能というのを心の中に有していなければ、
いざ社会へ出たときに取り返しのつかない事態となってしまう危険性も否めない。

例えば何よりも学問を優先させて日々勉強に没頭したのはいいが、
気が付けばそれだけで青春が終わってしまっていてコミュニケーション力もままならない、
ということになるとその後の人生のQOLが格段に下がることになってしまう。
その逆に毎日がDJ OZMAのようなアゲアゲな日々で遊びに困ることが全くなくても、
何の資格も教養もなければこの厳しい社会で生き残っていくことは年を重ねるに連れ難しくなっていく。

つまりは程良く自分をセーブしながら、様々なファクターの均衡を上手にとっていくことが
大学生活の4年間を成功させる"決め手"となっていくわけであり、
"秀才"な面と"バカ"な面のバランス感覚が何よりも大切となってくる。

本書はそんな適切なバランス感覚を養うための処方箋のような存在だ。
大学生にとって最も身近な存在である講義や読書・人間・進路・生活の意味を
各章毎に深く掘り下げていっていて、生きるための指針を余すことなく私たちに提示している。
なかなか表立って「人生とは...」と語られる機会が現代のキャンパスではなかなかないだけあって、
少々堅気な説教ではあるものの最後まで読んでみようという気持ちになってしまうのが不思議だ。

実は私、本書は今から7年前に初めて読んだ。
学校の近くにあった大きな書店にたまたま本書が置いてあるのを発見して
衝動的に買ってしまったのだけども、今でも印象に残っている本の中の一つだ。
(友達が大学へ入学したときは確かこの本を贈った記憶がある)
大学生よりもむしろ大学を志す高校生や受験生にお勧めしたい本かもしれない。

「生存の向上を、そのままもう一度質の高い生活に
 結びつけていく能力を養うところが大学だろう」 (p159)

この世の中に仕事はいくらでもある以上、生きていくだけならば大学なんていらない。
しかしやっぱり良い生活はしたい。ホリエモンほどでなくともお金は欲しい。
悲しい思いはしたくない。毎日笑っていられたら最高だ...

大学について真剣に考えてみたいあなたに捧ぐ一冊。

ISBN 978-4-00-500038-8大学でなにを学ぶか
隅谷 三喜男
岩波書店 1981-11-20
[岩波ジュニア新書 38]

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これから大学に入学する人も、いま大学で学んでいる人も、
大学生活を送る上で常に自問し続けていたい最も重要な問いがある。

『大学でなにを学ぶか』

講義に出て学問するのも「学び」。
アルバイトをして社会と触れるのも「学び」。
仲間を作って人脈を築くのも「学び」。
刺激に満ちた大学生活は毎日が「学び」の連鎖であると言って良い。

が、やはり中心となる「学び」は学問である。
この「学び」を捨てて課外活動や遊びに走る学生は本末転倒と言わざるを得ない。
別に学者並の知識を4年間で身に付ける必要性はないと思うが(というか無理だが)、
大学へ入ったからにはせめて社会人として恥ずかしくない「学際的な教養」は修得する必要がある。
そうでなければ大学へ入った意味などないに等しいし"失われた4年間"に過ぎない。

本書は大学へ進学して勉強する意味を様々な観点から考察したキャンパスライフ入門書だ。
刊行が四半世紀前と言うこともあってかデータや価値観等に古さが若干否めないものの
本全体を貫く著者の精神やポリシーは現代の状況に照らし合わせてみても充分に通用する。

大学生の特権はなんといっても天下無敵の「自由」さだ。
犯罪を犯さない限りはどんな生活をしても許されてしまうのが大学生であり、
どこへ行っても何かと優遇され"イイ思い"ができるのも大学生だ。
ある意味大学生は日本で最も恵まれた地位にある職業なのではないだろうか。

朝から晩まで好きなだけ本を読んで、気が向いたときに遊びに行って、
生活に困らない程度に働いて、来るべき社会生活に備える...
が、ただ無為に「自由」の前で胡座をかいていても人生を無駄にするだけである。

「この自由な時に、社会の動きを学生の純真なさめた目で見ておくことは、
 将来の生き方を決めるうえでも大切だということを、
 心に止めておいてもらいたいと思う」 (p65)

ちなみにもし私自身が「大学でなにを学ぶか」と問われれば「自分の可能性」だと即答するだろう。
私は病に倒れるまでの1年3ヶ月間の大学生活で自分の可能性とその限界を体で感じた。
自分には決定的に不足している能力があることを悔しいながらも知ったし、
逆に他の誰よりもこの部分では負けないという能力があることも知った。

それらは一人で本を読んでいても絶対にわからないことであり、
「学び」も「遊び」も手抜きなしで果敢に体当たりしていったからこそ得られたものだと思っている。
いろんな人との関わりから得た「学び」というのは私にとって計り知れない財産なのだ。

「自分の可能性」を知った上で、ではどの方向へと人生の舵を取っていくのか...
明日(4/9)、私は621日振りにキャンパスへとカムバックする。
予期せぬアクシデントはあったが、そんなことに負けていてはいけない。
大学生という特権を生かし、可能性を信じて、自分の能力の限界へと攻撃的に挑んでいきたい。

さて最後に本書は次の言葉で締め括られている。

「大学にいる間、きみたちが専門と定めたことを学ぶとともに、
 人間とは何であるか、人生とは何であるか、
 という問いについて考えてもらいたいと思う」 (p176)

大学生活を過ごしているあなたへ贈る一冊。

ISBN 978-4-12-150025-0医学部残酷物語 もう医者にはなりたくない
保阪 正康
中央公論新社 2001-11-25
[中公新書ラクレ 25]

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法学部、文学部、経済学部、工学部...
大学にはいろいろな学部があるが、一つだけ別世界な学部がある。

それは医学部だ。

もちろん入学試験や学費、カリキュラム的にも他学部とは区分けが付くのだけれども、
医学部の構造そのものが他学部とは圧倒的に違うのである。

最も顕著なのは「教授」の存在感の違いであろう。

教授は大学の教員ヒエラルキーの頂点に位置する職階だが、
一般学生にとってはせいぜい"勉強を教えてくれるおっさん""近所のおっちゃんおばちゃん"で、
大学院へと進まない限りは実社会において教授の影響を被ることはない。
ましてや就職先の人事にまで介入してくる教授はいないし、そんな権利まで教授にはない。

ところが医学部の教授は違う。泣く子も黙る絶大な政治的権力を有しているのだ。
学生(又は研修医)の人生は教授に一任されたも同然で、就職先も教授によって強制的に決められる。
就職先の人事や薬・医療機器の使用に至るまですべて教授が掌握しており、
教授に楯突くことは学生にとって医師生命の終わりを意味するといっても過言ではない。

それもこれも医局講座制という封建的な制度が未だに根強く残っているからだ。
本書はそんな医局講座制を基軸とした現代の医学部にスポットを当て、
現代の医学部に蔓延る問題を洗い出し、よりよい医学部のカタチを模索した意欲作である。

内容はほぼ全編にわたって医学部の構造(特に医局)批判を中核に据えている。
実は本書が執筆された2001年と2007年では医局を巡る問題の方向性が随分と変わった。
(よって本書の主張を咀嚼する際には現在の状況を勘案しなければならない)
2001年の時点ではそれこそ医局は鉄の結束を誇った"知的マフィア集団"だったが、
名義貸し問題や研修医の過重労働などの医局を巡る社会問題が噴出して、
この制度そのものに国民的な批判が集中し、その後医局の崩壊はすでに現実のものとなっている。
(医局そのものをなくした大学も実際にある)

2004年度から新研修医制度が始まったことも医局離れを促進させたが、
逆に医局が弱体化することによって地域病院の診療科が閉鎖されてしまうといった副作用が出ているのも事実だ。

かと思えば京大病院心臓血管外科のように医局ポストを巡る醜い争いで
数ヶ月も患者が手術できないという異常事態も現実に起こっていて(今月に手術再開)、
旧態依然とした"医局講座制"が一体善なのか悪なのか、今の時点では明確な答えは誰にもわからない。

一方で著者は医学部で学ぶ医学生に対しては熱いエールを惜しみもなく送っている。
医学生は医学のみならず自然科学、時には人文科学のプロフェッショナルな知識が厳しく要求され、
並外れた向学心を持つオールラウンドなプレイヤーでないとその職責を果たすこと出来ない。

「学力低下が著しいとか、まったく勉強しない大学生がふえているという時代、
 医学部学生に限ってはそのような時代とは一線を画する生活を
 送ることを余儀なくされている」 (p49)

そんな優秀な人材を現在の制度では生かしきれているのか否か。
医学部の未来のためにも本書を用いてじっくりと腰を据えて考えてみたい。

ISBN 978-4-00-431058-7教育力
齋藤 孝
岩波書店 2007-01-19
[岩波新書 新赤版1058]

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みなさんは「いい先生」に出逢ったことはあるだろうか。
私は中学生のときにある「いい先生」と出逢うことが出来た。

中学3年生のとき、いろいろと悩める思春期を過ごしていて、
私は自分に失望して、何事も悲観的に存在を捉えていた。
今から思えば本当に笑っちゃうくらいのことなのだけれども、
でも当時は真剣に悩んでいたし、それが世界のすべてだとも思っていた。

そのとき、ある社会科の先生が私をとても心配してくださって、
ご自宅のある隣の市から車で頻繁に家の近くまで駆けつけてくださった。

昼食を一緒に食べたり(よく奢っていただいた)、
実家の近くに海があって(海といっても漁船が行き交う港湾だが)、
そこでずっと日が暮れるまで自分の悩みを聞いてくださったりして、
高校受験のときまで大変お世話してくださったものだ。

あれから9年経った今でもこの「いい先生」のことはすごく心に残っていて、
当時の未熟さを詫びたい気持ちと感謝の気持ちで今はいっぱいである。

さて本書では「いい先生」を次のように定義付けしている。

「教師に求められるものを大きく分ければ、
 専門的力量と人格的魅力になろう。」 (p40)

そして「いい先生」の"条件"を教育方法論的に書き綴ったのが本書だ。
教育問題というのは複合的な要素が相互に絡み合っているのだけれども、
本書では「教師」に焦点を当て、教育の内層に迫っている。

中でも読んでいて特に印象に残ったのは
「学び合っているその時間自体を素晴らしい祝祭空間だとして、
 喜びを感じられることが基本」 (p130)
 という箇所だ。

教師→生徒という上意下達な"知識押し付け"ではなく
教師⇔生徒という双方向的な"学舎的精神"が
結果的に教師の人間力向上にも繋がっていって、
広い視野で見れば社会も変えていくのではないか、と。

予備校にいるチョーク芸人は確かにおもしろくてわかりやすい。
大学にいる教授は専門的な知識にはとても優れている。
でも「人間力を育む教師」として見てみると何かが足りない気がしてならない。

「いい先生」になるにはどうしたらいいのだろう--

教師が起こした事件を新聞で見ても全く驚かなくなった。
そんな世の中を変えるためにもまずこの本で「教育力」について考えてみたい。
あなたの周りの先生は果たして「いい先生」なのだろうか。

ISBN 978-4-334-03333-0不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か
長山 靖生
光文社 2005-12-20
[光文社新書 233]

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昔、猪瀬直樹「小論文の書き方」(文春新書)という本があった。
タイトルを見れば小論文の書き方を綴ったハウトゥー本かとも思うのだが、
蓋を開けてみれば"実践例"として自筆の時事コラムをただ並べただけという
確信犯的な構成に詐欺被害に遭ったような屈折した思いを抱いたことがある。

本書を読んでいてこの本の存在が久しぶりに頭をよぎった。
結論から言えば、タイトルと内容が一致していないのだ。

本の"顔"とも言えるタイトルの名は「不勉強が身にしみる」。
しかし本書を読んでいる限り著者が不勉強だとは思えないし、
世の不勉強な親子たちへ向けた内容かと言われるとそうでもない。

ヒントを探りに精読してみると序章の最後にこういった記述があった。

「本書は、凡庸な親が、子供の教育に悩みながら、
 親もまた勉強しなくてはならないと考え、
 しかし何をどうやって学ぶべきか、そもそも勉強とは何だっけ、
 といった事柄を思い悩むドキュメントである」 (p31)

つまり誰かに啓蒙するのを主目的としているわけではなく、
著者自身の勉強に対する知的営為を文書化したのが本書なのだ。

が、どうにもこうにもタイトルの真意がわからない。
さらに言えば内容が散漫としていて結局何が言いたいのかもよくわからない。

序章や第一章はジャーナリスティックに考察しているのだが、
第二章からいきなり"キャラ変"して若干文体が変わってしまう。
各章末にある「基本図書ガイド」にいたっては
語り口や内容の対象が高校生へ向けられているのが明らかなのだが、
いきなり対象を固定化されても読者としては戸惑うばかりだ。

「何をどうやって学ぶべきか」を考えていくドキュメントなのに
肝心の方法論(学術的であれ俗的であれ)がほとんど書かれてなく、
著者の思想をただダラダラと整理しているだけで、
それを教育問題とシンクロさせているところが狡猾ですらもある。

ひょっとしてそういう意味での「不勉強」を自虐的に晒す本なのだろうか。
どうも私には文体からして肌に合わない本だった。
人様に薦められない本を名著のように書くのは私の良心に反するので、
正直にここに記しておくことにする。

ISBN 978-4-00-430943-7日本の英語教育
山田 雄一郎
岩波書店 2005-04-20
[岩波新書 新赤版943]

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これだけ親米的な国であるのにも関わらず
日本人は総じて英語が苦手だということには誰も異論がないだろう。

日本人のTOEFL平均点(2001年)はアジアでも最下位に近いほど低く、
あの北朝鮮よりもスコアが低いという衝撃的なデータもある。

中学・高校とほぼ全国民が6年間英語を学習し、
街の至る所に英会話教室が点在し、
NHKでは英語講座が無料で全国放送され、
書店に行けば英語教材が溢れに溢れている。
おまけに若者が発信するサブカルチャーに至っては
ほとんどがハイカラな横文字モノだ。

それなのに何故これほどまでにも日本人は英語が出来ないのか。
ましてや食糧難に喘ぐ北朝鮮より低いとはどういうことなのか。
言語学的、文化的、政治的…様々な要因が考えられうるが、
本書では「文部科学省の言語政策」に焦点を当て、
"日本の英語教育"の核心に迫っている。

取り上げられている言語政策は主に2つで、
一つは文科省が日本人の英語力アップを目指して策定した
『「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想』。
もう一つはいわゆる初等教育における英語導入の是非の問題だ。

一言で著者の主張を要約すれば
これらの言語政策においては理念が決定的に欠けており、
「外国語教育を通して日本人をどう育てるか」 (p70)
というビジョンが全く浮かび上がってこず、
よってこのまま政策を施行したとしても余計に現場の混迷を深めるだけであり、
文科省にはその場しのぎの気分に扇動された政策ではなく、
きちんと将来を見据えて政策を構築すべきだ、といったことを提言している。

ただ純然たる政策解析書というわけではなく、
途中、英語教育史や教師論にも話題が旋回する。

「教育は、学習とセットになって初めて意味をなす。
 教師は、指導法を工夫し、技術と知識を磨いて生徒に対し、
 生徒は、好奇心と努力でこれに応える。
 この協力関係がないと、教育の効果も学習の成果もあがりにくい」 (p170)

この言葉は教育に携わるすべての人に向けての警鐘ではないだろうか。

また本書では少しではあるが英語の学習法にも言及している。
丸暗記に頼らず、かといって英会話に偏重せず...
と言ういたってスタンダードな理論なのだが、
それとは対極的な主張の本が
近年話題になったことも記憶にとどめておきたい。

その本とは
斎藤兆史『英語達人塾 極めるための独習法指南』(中公新書)
である。"よみもの"として一度読まれてみると良いだろう。

"日本の英語教育"のすべてをこの一冊で俯瞰することは不可能だが、
一部分だけ掻い摘んでみることは可能だ。
果たしてあなたは"日本の英語教育"の現状に満足しているだろうか。

2008年4月

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