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ISBN 978-4-06-287916-3国語審議会 迷走の60年
安田 敏朗
講談社 2007-11-20
[講談社現代新書 1916]

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先月、国語辞書の権威である広辞苑が実に10年振りにアップデートされた。

私は文学を生業としている人間ではないので
机上の辞書と睨み合いながら精緻に意味を解釈する機会にあまり恵まれないが、
複雑な用法を用いる場合はネットではなく机上の辞書を使って検討する場合が多い。
故に辞書は日本語を使う際の聖典と形容しても良く、
コミュニケーション力をより高めるためにも一家に一冊は広辞苑を彩りたいところだ。

だが何も辞書の編集者がすべての用法を独断と偏見で勝手に決めているわけではない。
意味の解釈の差異は辞書毎に多少あったほうがおもしろいものの、
辞書によって文法事項の記載が全く違うというのでは日常生活に支障を来してくる。

日本語を使うに際しては国家によって明文化されたガイドラインがあるわけで、
私たちは教育という社会的機能を通して知らず知らずにそのガイドラインを刷り込んでいる。
では具体的にそのガイドラインは一体誰が決めてきたのかと言うと、
今回ご紹介する本のメインテーマでもある『国語審議会』の存在が極めて大きい。

本書は戦前から今日にかけて設置され続けた国語審議会の功罪を明らかにし、
それらの事実を踏まえてよりよい言語政策を模索していこうとするマニアックな一冊である。
ちなみに現在は省庁再編によって文化審議会国語分科会に改組されているので
国語審議会という名称の機関はすでに現存しないことを註記しておきたい。

まず前半は戦前の言語政策にスポットが当てられている。
当時の日本は『大東亜共栄圏』を掲げてアジアを侵略し、
現地の人々を次々と皇民化していったわけであるが、
その際に大きな壁として立ちはだかったのが日本語の難しさだ。
日本語が話せなければ日本人として体を成さないわけであり、
当時の軍部や政府は如何にして日本語を普及させるべきかと頭を悩ませていた。

そこで伝統を捨ててどんどん簡素化した後に普及を目指す「現在派」と
伝統を重んじて日本人の精神の継承を目指す「歴史派」の真っ二つに立場が分かれ、
この本ではその攻防振りが詳細に綴られていて非常に興味深い。

さて戦後になると今度は漢字を撤廃しようという動きが活発となってくる。
憲法が新しくなり、国家システムも大転換して、ならば国語をもという風潮が強まり、
ローマ字・カタカナを中心に据えたいわゆる国語国字問題が勃発することになるのだ。

ここでも国語審議会では一悶着あり、やがては委員の脱退事件にまで発展した。
現在の感覚からすれば漢字を撤廃するなんて狂気の沙汰とも思えるが、
お隣の韓国では戦後に漢字が撤廃されて現在ではハングルのみとなっている。
(ベトナムでも漢字は撤廃。一方北朝鮮ではわずかながらも漢字が現存)
日本でも趨勢のベクトルが少しでも違っていたら韓国と同じ道を歩んでいたかもしれない。

このように戦前から戦後にかけては主に技術的な面から議論されてきた。
しかし高度経済成長を達成して豊かになったこの国では識字率も格段に改善され、
だんだん人々は技術的な言語政策に興味を示さないようになってくる。

「国語審議会は、日々の生活で直面する言語問題について
 中心的に議論をする場ではなくなっていった」 (p268)

要するにやることがなくなってきたのである。
そこで台頭してきたのが日本語はこうあるべきだという精神論だ。

「国語の表記をどうするかといった技術的な議論ではなく、
 国語によってなにができるのかという精神論へと重点が移っていく」 (p190)

当然こういった精神論には明快な答えがない。
暇を持て余しているオッサンたちが延々とオナニーを繰り返しているだけであり、
何の生産的な議論も行われていないのが国語審議会の現実なのだ。
(現に国語政策において極めて重要であるはずの文字コードの策定は
 国語審議会ではなく通産省(当時)によって主導されている)

それどころか最近では政治と連動してイデオロギー色を俄に強めつつある。
確かに将来世代のためにも日本語の魅力を尊重していくべきだとは思うが、
だからといって正しい日本語さえ身に付ければ万事すべてが上手くいくとは毛頭思わない。
飽くまでも言語は文化ツールの一つに過ぎないことを忘れてはならない。

「国語の伝統・国語への愛をどれだけ強調してみたところで、
 この社会の構造的格差は解消されない。
 むしろ、国語への愛にまどろませることで、
 現実を直視することから逃避させたいのかもしれない」 (p196)

国際化社会の下ではいかにして多言語と共生していくかを考えるべきなのに
日本語は美しいという自画自賛の議論だけに終始してしまって果たして良いのだろうか。

言語は国家が政治的権力を用いながら"政策"として形成していくものでは本来ない。
ただ最低限かつ一定のガイドラインがなければ文化が維持できないのも事実だ。
そのバランスを考えながら21世紀の日本語を議論してもらいたいものである。

国語審議会のすべてがわかる一冊。

ISBN 978-4-16-660531-6ネット時代の反論術
仲正 昌樹
文藝春秋 2006-10-20
[文春新書 531]

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「ディベート」という言葉をみなさんはご存知だろうか。
簡単に言えばYES・NOに分かれて論拠をはっきりさせながら議論を行うことで、
近年では教育現場や企業で学生や社員の自己啓発のために導入されることも数多い。

ではディベート力を完璧にしたらどんな議論でも勝てるようになるのだろうか。
残念ながら答えはNOだ。逆にディベートが上手いと墓穴を掘ってしまうことにもなりかねない。

何を馬鹿なことを言っているのか、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
そりゃ相手の正体が誰なのかよく認識できていて、それなりに教養があって、
かつ人格が崩壊していなく、きちんと話が通じるのであれば、ディベートで培われた能力は威力を発揮できる。

しかし議論の舞台がいつもそんな理想的コンディションばかりだとは限らない。
ここで少しインターネットの世界を例にとって考えてみよう。
2ちゃんねるやブログで論争に遭ったときに、どこの誰だかわからない人を相手にして、
知識レベルも性格も全くわからない状態でまともな論争を期待しようとしてもそもそも無理がある。
「論点は○○で」「この論理は矛盾に満ちている」などの論理詰めもネット上では無効になる場合が数多い。
次第に野次馬的なギャラリーが増えてきて、あらぬレッテルを貼られ、ひどいときには人格攻撃をされ、
いつの間にか数の上で劣勢に立たされて、流れに負けてそのまま論戦が自然消滅するというのがオチだ。

本書はそういったネット特有の論戦状況において如何にして反論していくかについて考察した本である。
タイトルに「反論術」とあるもののいわゆるハウトゥーものではなく、
「何が何でも相手に勝とうとする反論合戦がいかにバカらしいか、
 そのためにいろいろな手練手管を使うことが、いかに消耗させられることであるか、
 アイロニカルに距離を置いて見るような内容」 (p214)

となっている。つまり一応反論術は記載されているが、無駄な議論は極力やるなということだ。

そもそも日常生活において目を血眼にして議論しなければならないことなんてまず存在しない。
そんなに本気かつ切羽詰まった論題ならば裁判所へ舞台を移すはずである。
政治・経済にしてもネット上で議論したところで現実が変わるわけでもなく、
議論すればするだけ双方にストレスが生じて結果的に徒労に終わることが少なくないのではないだろうか。

ここで発想を転換すべきなのだ。本書では全く逆の視点から反論術を説いている。

「ほんとうに論争すべき相手ではないのだったら、相手を立てるようなふりをしながら煙に巻き、
 自分がいかに知的かということをギャラリーにそれとなくアピールした方が得策」 (p68)

なんという現実的な方策だろう。これは小泉前首相を例に挙げるともっとわかりやすい。
「人生いろいろ、会社もいろいろ」などと言って論題を上手に煙に巻いて選挙に大勝し、
ディベート的な真っ向勝負を挑んだ民主党が有権者にいつまで経っても受け入れられない現実を前にすると
やはり議論の世界でも処世術というのは必要なようである。
本書はそんな処世術が満載なので議論好き(?)な人は一読されることをぜひオススメする。

新しいタイプの議論の本、此処に在り。

ISBN 978-4-06-149603-3大学生のためのレポート・論文術
小笠原 喜康
講談社 2002-04-20
[講談社現代新書 1603]

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大学へ入ると数ヶ月以内に必ずといって良いほどレポートの課題が出される。
そして卒業時にはほとんどの学部で"卒業論文"という大作を仕上げなければならない。

しかしその割には「レポート・論文の書き方」を授業で教わることは少ないのではないだろうか。
むしろそれぐらいは出来て当然という風潮が暗黙の了解のうちにキャンパス内を支配していて、
せいぜい事務室等から紙切れ一枚の「注意点」が配布されるのが現状である。

なのでレポートをブログのノリで書いてしまったり、
論文のルールを理解せず書き殴ってしまう学生が多すぎると教授陣が嘆く結果となってしまうわけだ。
(考えてみれば教わってもないのだから間違うのは当然のことだと思うのだが)

本書はそんな"隙間産業"であるレポート・論文の書き方について綴った一冊だ。
主に文系学生に必修な基礎的事項が網羅されており、
この本をルールブックとして手元に置いておけば少なくとも単位を落とすことはないに違いない。

文芸作品(小説、エッセイなど)を書く場合は努力したから書けるというわけではなく、
そこには神の恵みとも言うべき才能が有意に関係してくるのだが、
論文というのは才能の如何は一切関係なく、訓練すれば誰でも書けるようになるスキルだ。

ここで注意しないといけないのは論文と文芸作品は根本的に書き方が全く違うことである。
私はここに読書日記的な書評を記しているがこれは論文ではない。
論文は限りなく透明な客観性を保持するためにかなり論理には厳格で、
参考文献なども事細かく明記せねばならず、しかもそこにオリジナルの主張を入れなければならない。

ただ先行研究をなぞっているだけではそれは単なる"作文"だし、
巧みに言葉を操って情緒的に訴えかけても論理性に乏しければ論文とはいえない。
執筆にあたっては「学問は、自分の理解を疑うことから始まる」 (p81) 心構えが大切なのであり、
「「常識を疑え」ということも、とても重要である」 (p103) わけなのだ。

また本書はご丁寧にも「文献の調べ方」や「ノートの取り方」までの模範例が記されている。
全体的に一冊が長編論文になるように構成されてはいるのだが、
はっきりいってお世辞にも文体的にはあまり上手であるとは言えない。
そもそも論文というのは型が決まっているせいか読んでいて(知的興奮は別として)総じておもしろくはなく、
そういった現実への自戒を込めておもしろい論文への模索も記していれば
もっと有意義な本になっていたかもしれないと思うと少々悔しい。

最後に著者はこれからレポートを書こうとする大学生へ次の言葉を贈っている。

「権威を無批判に受け入れたり、実験などの形式を真似て、
 論文の体裁を整えることにあまり心と頭脳を使わないでもらいたい」 (p217)

レポートを書く前に一読しておきたい一冊。

2008年4月

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