BOOK REVIEW 195 中村文則『土の中の子供』

ISBN 978-4-10-128952-6土の中の子供
中村 文則
新潮社 2008-01-01
[新潮文庫 な-56-2]

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PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が一般にも広く知られるようになったのは
確か阪神・淡路大震災がきっかけだったように記憶している。

震災時、大阪に住んでいた私は幸いにも生命に危害が及ぶほどの状態には陥らなかったが、
それでもテレビ画面に映し出される衝撃的な映像や断続的に続く余震は恐怖を増幅させ、
少し揺れただけでも全身に戦慄を覚え、トイレへ行くのですらも震え上がっていた。
今にして思えばこれは一時的に私を襲った軽度のトラウマだったように思う。

もちろん神戸で被災された方々が実際に受けた衝撃やトラウマには計り知れないものがあった。
未曾有の大惨事は児童から大人に至るまで精神的に激しいショックを与え、
今なおPTSDに苦しみ続けている被災者の方がおられることも決して忘れてはならない。

幼き日に体験したトラウマというのは身体の奥深くにまで刷り込まれ、
それを消し去ろうとしてもなかなか思うようには消えてくれないのが現実だ。
震災のような大きなトラウマはもちろんのことながら、
小さなトラウマだって日常生活に重くのし掛かっていく。

ショッピングセンターで迷子になり、閉店後もすぐには親が引き取りに来てくれなかった体験。
些細なことで血相を変えるくらい親に怒鳴られ、誰にも助けてくれない孤独を感じた体験。
身体のことに関してクラスメイトにちょっかいをかけられ、大きな恥をかくことになった体験...
そういったトラウマは人間の行動の一部を知らず知らずに規定し、
次第に人生をも浸食していって、この社会に生き続けることがだんだん嫌になってくる。

今回ご紹介する物語の主人公は幼き頃、義父母の家で日常的に虐待されていた。
殴られ、蹴られ、自分という全存在をこれでもかと否定され、
生きていることそれ自体が罪だということを認識せざるを得なかった。
ひょっとして自分は汚れることにしか存在意義を見出せないのだろうか。

虐待は更にエスカレートしてやがて主人公は土の中へ生き埋めされることになる。
かつて人間は屍になると土葬され、「生物」として食物連鎖の自然界へと還元されていったが、
今ここに生き埋められている自分はまさに最も人間らしい行為を完遂しようとしている。
素晴らしいではないか!これで義父母の顔を見なくて済む上に醜い世界とも縁を切ることができるのだから。

いや、主人公は納得しなかった。違う。違う。何かが違う。だけど何かが何なのかがわからない。
その何かを言葉で明瞭に表せるようになるためには生き続けなければならないのではないか。
このままではあまりにも生き損であり、トラウマという絶壁を克服しなければ、
自分の魂を翫び続けた義父母が笑うだけであり、その笑い顔は私を殺していくに違いない。

「私は、生きるのだ。お前らの思い通りに、なってたまるか。言うことを聞くつもりはない。
 私は自由に、自分に降りかかる全ての障害を、自分の手で叩き潰してやるのだ」 (p92)

こうして九死に一生を得た主人公だったが、大人になってからも苦難は続いた。
マゾヒスティックに不幸を欲している自分。己を刃物で傷つけて笑っている自分。
常人には理解しがたい奇妙な行動を取る主人公のココロの粘膜は見事に剥がれ落ち、
消えないトラウマを完膚無きまで消し去るために主人公は無駄とも言える藻掻きを繰り返していた。

「このまま何の役にも立たずに、虫みたいに死んでいく自分がだよ。
 しかも、俺は笑ってるんだ。屑じゃないか。そうだろう?」 (p59)

彼にとって「生」とは一体何だったのだろう?
自殺的な行動を何回もとってしまうのに決して死にたいわけではなかった主人公。
彼の悲劇的な人生から私たちの生きるヒントを酌み取るとしたら何があるのだろうか。
それはあなた自身で本書をお読みになって"悲しき性"を感じ取ってほしい。
人間はどんな逆境に陥っても逆説的に希望を抱き続けることができるものなのだ---

本書では他に短篇『蜘蛛の声』も収録されている。
この物語もトラウマに起因して生の根源を探っていく物語だが、
併読すると作者のアイデンティティが見え隠れして実に興味深い。

電気を消して蝋燭を灯しながら読んでみたい一冊。

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