![]() | 東京奇譚集 村上 春樹 新潮社 2007-12-01 [新潮文庫 む-5-26] by G-Tools |
"餃子の王将"が主食であるはずの私にしては珍しく
その日の夜は無性にイタリアンを食したい気分に駆られた。
決して気取っていたわけではない。ましてや功利的な動機に浸食されていたわけでもない。
その時の私は何かに憑依されたかのようにオリーブオイルを渇望しており、
腹が鳴るのを抑えてチーズの匂いを嗅ぎ分けながら繁華街を右往左往していった。
ところがどれだけ探してもイタリアンの店が見つからない。
これだけ歩けば一軒ぐらいはパスタの看板を目にしても確率的におかしくないはずなのだが、
目的の店には見事に巡り会うことがなく、いつの間にか普段は歩かない道を闊歩していた。
そして辿り着いたのが自分の意思では滅多に入らないであろう高級店だったのだ。
セレブな雰囲気が店中に充満し、そこには私の愛するネコのアンティークが屹立していて、
料理も文句なく美味しく、束の間の幸福に充足することができ、私のすべては満たされた。
帰り道、あれだけ探しても見つからなかったイタリアンの店が嫌と言うほど目に付いた。
まるで一時的にテナントを衣替えしていたかのように私の視界から影を潜めていた店たち。
ひょっとして私がセレブなネコの店に出会うために、自己主張を留めておいてくれたのかもしれない。
どうして行くときにイタリアンいっぱいのこの道を通らなかったのだろうか?
"偶然の産物"に過ぎないではないかと言われれば確かにその通りだ。
だがこの奇譚的な現象に意味性を求めるとしたら果たして何があるだろう。
超越的な自己が身体的な自己をコントロールしながら、運命の幻影を翫んでいるのだろうか。
私たちの手が及ばない不可侵の領域で、運命の歯車は何かに向かって動き続けている--
本書は大都会・東京の片隅に起こる不思議な話を描いた文字通りの"奇譚集"だ。
日常的にありそうな話からパラレルな話まで短篇・中篇が5作品収録されており、
現実からほんの少し捻れた不可思議な世界観を体感することができる。
オープニングを飾るのは『偶然の旅人』という物語だ。
ピアノの調律師が実はゲイであったという衝撃的な事実から始まるこの話では、
ある日ある場所で偶然出会う既婚女性を媒介に運命が一つへと繋がっていく。
世の中は案外広くないとよく言われるけれども、強ちウソでもないかもしれない。
続く『ハナレイ・ベイ』の主人公はハワイの海にて19歳の息子を亡くしてしまったサチで、
彼女は息子を忘れないために毎年ハワイで命日を過ごしている。
ある年、息子と同い年ぐらいの若者二人組と偶然ハワイで仲良くなり、
その二人組から信じられないようなある事実を告げられることに...
三作目の『どこであれそれが見つかりそうな場所』ではもっと不思議な世界観が漂う。
主人公の夫が何の前触れもなく突然階段の踊り場からいなくなってしまうのだ。
理由が全くわからない。だけどもいなくなってしまったことは事実。
そこで妻は謎の探偵へと調査依頼を出し、探偵は踊り場を調査し始めるが...
売れない作家を主人公に据えたのが四作目の『日々移動する腎臓のかたちをした石』だ。
「一生の間で本当に意味を持つ女は三人しかいない」という父の呪縛に彼は苦しみ続ける。
偶然出会った年上の女がその三人のうちの一人に入りそうだということで、
彼は今までほとんど他人にさらけ出さなかった自己を彼女へとぶつけることになるが...
そしてぶっ飛んだストーリー展開なのがラストの『品川猿』だ。
安藤みずきは突然自分の名前が出てこなくなる症候群を発症してしまった。
住所や電話番号は問題なく出てくるのだが、何故か名前の記憶だけが飛んでしまう。
医者に診てもらっても真相がよくわからない。仕事にも支障が出るだけにとても困る。
どうにもならなくなってしまったみずきはカウンセラーに相談することになり...
小さな偶然がピースのように絡まり合い、未知の真実が抉り出されていく。
結果論と言われればそれまでだが、震度0の偶然と共に私たちはきっと日々を生きているのだろう。
そんな微細な人生の揺れに耳を澄ますと、想像もつかないほど洗練された世界があることに気付く。
日常に経験するあらゆるレベルの出来事は何らかの意味へと収斂していくのかもしれない。
偶然性が気になるあなたに贈りたい一冊。


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