![]() | 黒い雨 井伏 鱒二 新潮社 1970-06-25(改:2003-05-30) [新潮文庫 い-4-6] by G-Tools |
”忘れてはならない、夏がある”
1945年8月6日、原子爆弾が世界で初めてヒロシマに投下された。
この史上最悪の兵器によって十数万人もの市民が無差別に殺戮され、
ヒロシマは一瞬にして廃墟と化し、無謀な戦争の運命を決定づけた。
あれから62年。現在でも被爆者の方々は唸るような後遺症に苦しめられ、
原爆症認定訴訟は各地の裁判所で未だに提訴され続けている。
すっかり平和となったこの国で年月の流れと共にヒロシマが風化されつつあるのも極めて遺憾なことだ。
原爆投下当時のヒロシマの状況をあえて一言で表すならば「阿鼻叫喚」という言葉が挙げられる。
いや、この言葉を持ってしても想像を絶するような惨状はとてもじゃないが伝えきることができない。
それほどあの日のヒロシマは「死屍累々」な地獄図を呈していた。
今回ご紹介する本は飽くまでもフィクションという体裁は取っているものの、
そんなヒロシマの記憶と現実を率直に綴った原爆文学の名作である。
特徴的なのは政治的な要素を徹頭徹尾捨象して、
ひたすらストイックに8月6日以降のヒロシマを叙述していることだ。
そのことがかえって”原爆のリアルさ”を逓加させている。
物語は主人公の閑間重松が被爆当時の日記を清書していくというスタイルで進行していく。
その日記には食事の内容や人間関係の機微に至るまで当時の状況が実に事細かく記されており、
一瞬の閃光の後に待ち構えていた荒れ果てたヒロシマの様子が改めて浮き彫りにされている。
「ピカドンこのかた、人の死骸を見すぎるほど見たにもかかわらず、
死骸というものが僕は怖いのだ」 (p353)
とあるように街では至る所で強烈な悪臭と共に死屍が山積されていた。
道をさらに歩いていると瓦礫の下から泣き叫ぶ声もちらほらと聞こえてくる。
「水が欲しい」「何か食べたい」「かあちゃんはどこだ」…
食べ物なんてないに等しい。少しのコメを口に出来ればまだ上等。
ほとんどの人の肌は爛れ、その傷跡には人間の醜態を嘲笑うかのように蠅が絶え間なく集っていた。
他にも目を背けたくなるような描写が感情を押し殺すようにどんどん続いていく。
「もう戦争なんていい加減にしてくれ」「軍部は何をやっているんだ」…
この期に及んでも物語の登場人物はそんなことを一切語らない。
今ある運命をただ受け止めて、自分の為し得る範囲内で力強く生きようとしている。
パワーゲームに抑圧された市民の悲しき性が何とも言えぬくらいの無情さを醸し出す。
重松の姪である矢須子も重松と同じようにヒロシマで被爆した。
戦争が終わって矢須子は被爆者であることを理由に縁談を破棄され、
さらには原爆症も発症してしまい、医者にも治療法がないと見放されてしまった。
原爆さえなければ幸福な人生を歩むはずだった矢須子。
彼女と同じような宿命に立たされた人々がヒロシマの地にはたくさん眠っている。
…読み終えた時、私はヒロシマの人々の悲痛なる叫びに苦しめられた。
私のチカラではどうすることもできない現実にもどかしさだけが残った。
そして本文中に刻された一つの言葉がさらに私の心を締め付ける。
「いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」 (p205)
戦争をして得をすることなど一つもない。ましてや核兵器なんて存在自体が狂気の沙汰だ。
どこかの国が一発でも核兵器を使おうものならば、
終わりのない応酬が延々と続いてやがて地球は破滅していくだろう。
戦争になれば大多数の国民が”国家のため”との美名の名の下に石ころと化す。
英雄なんてどこにもいない。戦争とは石ころが砕け散る連鎖にしか過ぎないのだ。
この小説から描出される退廃的な空気が戦争の無意味さを何よりも証明している。
悲しいことに今も世界のあらゆる場所で核兵器が睨みを利かせ、
民族や宗教に起因する紛争は一向に終わる気配を見せない。
そんな状況から「戦争は起こって当たり前」などといった開き直りの意嚮まで論壇を席巻している。
が、「平和」は決して理想論ではない。今すぐにでも世界全体が追求すべき共通権益なのだ。
世界中の人々と瞬時に交信できるインターネットだって少し前までは理想論に過ぎなかった。
そんな理想論を技術者が払拭し、実現に向けて努力したからこそ今があるのではないか。
つまり平和を理想論で済ましていてはいつまで経っても世界は進展しないのである。
700万人が虐殺されたスーダンのような国に日本もなるなんてまっぴらごめんだ。
まずはこの本を読んで戦争や原爆のありのままの姿を知ってほしい。
そして核兵器がいかに恐怖の兵器であるかの重みを五感で感じ取って欲しい。
あなたには戦後62年を経て尚も鳴り止まないヒロシマの叫びが聞こえますか?
日本人として読むべき一冊。


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