![]() | 都市経済論 杉浦 章介 岩波書店 2003-02-25 [岩波テキストブックス] by G-Tools |
京都市民である私にとって観光客は非常に身近な存在だ。
毎日のように修学旅行生を道で見かけ、標準語の人に声を掛けられ、
昨年京都を訪れた観光客数が約4800万人というのも日々の生活から充分に実感できる。
そんな観光客が京都の経済にとって重要なファクターであることには間違いない。
が、観光客は京都市民とは全く違う経済域に組み込まれていることに私は最近気付いてきた。
例えば観光客が食事を楽しむ場所は和菓子や湯葉などの"京料理"の店と相場は決まっており、
まかり間違っても京都発祥の王将や天下一品などの"京料理"の店へは足を運ばない。
観光客が四条通を闊歩することはあっても、五条通を徒歩移動する観光客はあまりいない。
要するに経済活動が市民と観光客とでは完全に分断されてしまっているわけである。
ならば果たして観光客が落としていくピン札君たちは一般の京都市民には流れているのだろうか。
そもそも都市経済は一体どのような仕組みでカネを循環させているのだろうか。
本書は「都市経済論」の枠組みについて概説した一冊で、
《産業集積》《空間的システム》《社会的共通資本》の3つの視点から都市経済の実像に斬り込んでいる。
文体のテンポも良く、具体例が豊富に収載されているのも本書を彩る好感ポイントの一つだ。
一般的に「都市」といえばあらゆる産業が集まっているイメージがある。
ではなぜ田舎ではなく都市に産業が集積していくのだろう。
それは一つの都市に産業資本を集中させることによって外部経済性が生じてくるからであるが、
第Ⅰ部の《産業集積としての都市経済》ではそのメカニズムが詳説されている。
第Ⅱ部の《空間的システムとしての都市経済》でのテーマは都市経済における空間の変容についてだ。
都市の真ん中にはたいてい繁華街があり、同心円状に住宅地が形成されていく。
マンションが建ち並ぶニュータウンの真ん中に工場が建つことはありえないし、
逆に歌舞伎町のど真ん中を宅地化することも都市政策的にはメリットがない。
つまり都市に偏在しているそれぞれの空間には何らかの存在意義があるのである。
本書では地代リング・モデルなどを用いながら空間的内部分化の必然性を科学的に証明しているのだが、
おもしろいのは米国の都市システムの変容を例にとって空間的システムが決定的に転化する実例を挙げているところだ。
高度情報化社会においてはTNC(=TransNational Corporations)が距離の摩擦や地代競争を解消し、
政策的な立地の概念はもはや意味を成さなくなってきている。
家の近くに本屋がなくたってインターネットがある限り本を買うのには不自由せず、
それ故に従来型の空間的システムで配置されていた街の本屋はその存在理由を失っていく。
そうすると商店街は空洞化の運命を辿ることは必至になるわけだけれども、
ではぽっかりと空いた穴を埋めるにはどういった都市政策が必要とされているのか。
...なかなか答えが出せぬ難問である。
最後の第Ⅲ部で考察されているのは《社会的共通資本としての都市経済》だ。
インフラと聞いて我々がイメージするのは道路や建物などの目に見える物体であり、
それらを利用するときにはfeeという可視的手段で人々に"利用"が意識される。
だけども大気や森林などの自然資本も広義ではインフラであり、
こちらは直接的なアプローチがないだけにどうしても市民側の利用意識を欠いてしまう。
そのために環境との関係に軋みが生じて様々な都市問題が湧き上がってくる。
「負の外部経済性を引き受けなければならない人々と、
社会的共通資本の利用による便益を受ける人々とが一致しないために起る問題」 (p178)
ゴミ処理場は絶対に必要な負のインフラであり、誰だって近所にあってほしくないと願うものだが、
行政権力を用いて誰かに強制的に引き受けさせなければ、
マスとしての市民の便益が大きく損なわれ、結果として都市経済は埋没してしまう。
が、こういった便益の不均衡に対しては住民側の泣き寝入りで済まされているのが現実で、
自治体側もある程度の配慮はするものの税制上の特別な優遇措置はほとんど取られることがない。
(さらに言えばこういったマイナス要素はしっかりと地価に反映される)
この他にも例を出せばキリがないほどに社会的共通資本を巡る問題は山積しているが、
一つ一つの問題に対処していくためにはまずは都市経済に関する知識が必要である。
まちづくりが完全に住民主導となっていく時代はすぐそこまできている。
そんな素敵な時代が本格的に到来する前にせめて都市の仕組みだけは学んでおきたい。
シムシティをやる前に読んでおきたい一冊。


コメントする