![]() | ディープ・コミュニケーション 出会いなおしのための「臨床保育学」物語 今村 光章 行路社 2003-07-20 by G-Tools |
最近、「mixiやってる?」といろんな人から常套句のように聞かれるようになってきた。
この場を借りて記しておきたいのだが、私は思想上の理由でmixiを一貫して拒否し続けている。
SNSが嫌いというわけではない(大学のSNSでは実名できちんと参加している)。
"mixi"が私にはどうしても受け入れがたい存在なのだ。
ではなぜmixiがダメなのか。あの軽薄なコミュニケーションの応酬が耐えられないのである。
例えば日記を書く。するとマイミクと称される"お友達"から夥しい数のコメントが寄せられる。
その98パーセントは当たり障りのない数行程度のぬるま湯コメントばかりで、否定意見など御法度だ。
そんな明らかに"建前"以外の何物でもないコメントをもらって、何がおもしろいのだろうか。
もっと言えば果たしてこれはコミュニケーションとカテゴライズすることができるのか。
そもそも本当に必要で重要度の高いコミュニケーションはオープンにはしないはずである。
人間関係のコマを一歩進めるためには(知人→友人、友人→恋人)、どうしても濃いコミュニケーションが必要だが、
愛の告白・囁きや喧嘩の仲裁を衆人環視のコメント欄でやる人なんてまずいないはずだし、
大切な友人・恋人とのやり取りはコメント欄よりもプライバシーが守られるメールが基準となるはずだ。
つまりコメント欄で完結するコミュニケーションは誰が読んでも差し障りのない内容に帰結していくのである。
もっと言うならばどうでもいい内容なわけであり(どうでもいいからこそ公にできるわけだけども)、
故にmixi上での日記のコメントというのもとどのつまり"何もない"コミュニケーションと言えるのではないか。
些細な感情や思いなどを文字として半強制的に可視化する必然性は全くなく、空気と同じだからだ。
仮に健康な人に酸素(=空気)を与えたとしてその人は喜ぶだろうか。むしろうざいと感じるのではないだろうか。
しかし病気の人に酸素を与えるとものすごく重宝される。重症であればあるほど酸素は欲される存在となる。
となれば酸素のようなコミュニケーションに安心感を抱いて喜んだり強迫的に欲したりする人というのは
コミュニケーションにどこか充足していない人なのではないか。ディープ・コミュニケーションの欠如だ。
何か明確な目的意識に依拠して書き込むならまだしも、単に流れだけでコメントをつけていくというのは、
実体を伴わぬ虚空の交流であり、そんなやり取りがメインならばコミットしないほうが賢明だと判断し私はmixiを拒否している。
長々と書いてしまったが本題に戻そう。実は本書にもこういったコミュニケーションに関するエピソードが目白押しなのだ。
あえてカテゴリー分けを試みるならば教育学の本ということになるのだろうが、
本書の大部分は著者の体験談を基にエッセイ風に構成されていて、
今どきの若者のコミュニケーションスタイルの特徴が鋭く考察されている。
サブタイトルに「臨床保育学物語」とあるように元々は子どもをいかにして育てるかというのが本書の主旨だ。
が、コミュニケーションの原点に立ち返った大胆な提言をしている箇所が大変おもしろく、
読んだ瞬間から「これはコミュニケーションに革命が起こるかもしれない」と私は惚れてしまった。
それは 「超-言語主義---言葉を超えたところにあるコミュニケーション---」 (p146) の概念である。
みんな自分のことしか考えていないカラオケ、人の話を聞かない教師、ケータイの顔文字メールで感情代用...
本文にもあるように最近のコミュニケーションはボタンの掛け違いがどこか目立って仕方がない。
が、そもそもコミュニケーションは必ずしも言葉と言葉のキャッチボールを必要としない。
人間と人間が交わるわけだから、言葉を超えたところのコミュニケーションだってあるはずだ。
欧米流に言えばボディーランゲージであり、どうも現代の日本人はそれを忘れているのではないか。
そこで建前を払拭したディープ・コミュニケーションの出番がやってくるわけだ。
本書にはいくつかの実験例が収載されているが、ここでその一つをご紹介してみよう。
人と会ったとき、最初に握手を交わしてみる。さらにお互いの眼と眼を見つめ合ってみる。
すると特に異性同士ではドキドキ感が高揚してすぐに顔を赤らめてしまって、
二人は互いに「見つめ合うと素直におしゃべりできない」状態と化す。
が、このプロセスを経るのは意外に大切なことで、
見つめ合った後は不思議とお互い打ち解けてリラックスしてしまう。
なんだかよくわからないが、お互いの心が通じ合えた、
いや、相手に自分という存在を認めてもらったような気持ちになる。
(実際にやってみるとかなり実感できる)
そしてそこから"キレる"空気を生まない安心感が醸成されていくわけだ。
ならばとりあえず手を繋いでみるというのはどうだろう。
相手があまり得意な人ではないときも、勇気を持って手と手を握り合ってみてはどうだろう。
「ディープ・コミュニケーションは、相手の可能性をとことん信じること」 (p210)
どんな人にだって良いところは必ずある。そこで人間性をフィルターに篩に掛けるのではなく、
相手の可能性を信じて、とことんディープ・コミュニケーションしていけば自ずと仲は接近してくるのではないだろうか。
必要以上に人間関係を無菌化して虚空な言葉を電脳空間に舞わせる労力があるのならば、
その労力を誰かとディープ・コミュニケーションすることに注いだほうが絶対に実益になる。
コミュニケーションしているようで実は本当の意味でのコミュニケーションから逃避している...
それが鏡に写されたインターネット・コミュニティの姿のような気がしてならない。
コミュニケーションについてもう一度考えてみたい人に贈る一冊。


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