![]() | クワタを聴け! 中山 康樹 集英社 2007-02-21 [集英社新書 380F] by G-Tools |
サザンオールスターズ・桑田佳祐の全曲を5つ星で採点して、
全曲に1ページずつの批評を記したサザン初の新書本が先月刊行された。
が、あまりの内容の希薄さに大のサザンファンである私は思わず愕然としてしまった。
字数稼ぎとしか思えない見苦しい比喩や稚拙な文章表現、
さらにはインターネットで集めてきた表面的な知識(マニアなら一発でわかる)と既成事実無視の随想。
こんなノリで400ページ超の文章群を"文芸作品"として読んでいくには正直苦しいものがある。
本書は残念ながら「批評」の資格を満たしていないと言わざるを得ない。ブログレベルの「感想」だ。
サザンオールスターズを語るには大きく分けて3つの視点が必要であると私は考えている。
まず1つ目は本書でもプロローグで述べられている「和洋折衷」の概念だ。
洋楽と邦楽を本格的に融合させた初めてのアーティストが何を隠そうサザンオールスターズであり、
本書風に言うならばクワタの楽曲にはどこかしら洋楽の亡霊が憑依している。
この点に関しては私なんかよりも遙かに音楽知識のある著者だけに鋭い「感想」を書いている。
しかし本書最大の欠点はこのファクターだけで全曲解説に邁進してしまったところだ。
批評というのは多元的な見地から論理的に考察していかなければならないのが基本なのに、
どんな曲でもまず「クワタと洋楽」の関係ありきから書き綴っていくのはいかがなものか。
2つめは「日本的」な概念。歌謡曲や茅ヶ崎・湘南の存在だ。
日本人が思うほど『真夏の果実』は外国人の心にグッとこないが、
『いとしのエリー』はグローバルスタンダードだ。この違いは何だろう。
まさにこれは日本人が持つ「わび・さび」文化に関係していて、民俗学的な考察が要される。
またクワタの音楽観は歌謡曲マインドも継承していて、歌謡史とリンクさせた時代考証も必要だ。
もう一つは「商業音楽」である。要するにいかにして売れるのかという電通的考察だ。
曲が制作されてそれが流通していく過程には何かしらの社会的背景が必ず潜んでいて、
そこを解き明かしていかないと音源に隠された真の意味性というのは一向に見えてこない。
他にも「みんなのサザン」的な考察も忘れてはならない。
『愛と欲望の日々』や『DIRTY OLD MAN』なんて密室で聞いているだけでは魅力は半減である。
みんなで聞いて思い出を共有してこそ初めて曲が持つ魅力の扉を開くことができるのだ。
部屋の中で一人で音源を聞いていても音源に対しての複眼的なモノの見方は出来ない。
さらに感化できないミステイクは"事実誤認に基づくミスリード"が多すぎることだ。
「好き」「嫌い」なんていうのは個人の主観であるので、
別にどんなに醜い言葉でクワタを罵倒していただいても全く構わないのだけれども、
事実に反した史実に基づいて論理を飛躍させて批評するのは論外である。
せめて批評をするならば可能な限り文献を限りなく精査して
論理を構築していくのが文筆家としてのあるべき姿勢なのではないのか。
(余談だが本書と同コンセプトの『AKEINS DATABASE』を制作する際には
当時のインタビュー記事をたくさん調べて、
大先輩のファンの方に対しても実際にお会いしてヒアリングの機会をもった。)
例えば『KAMAKURA』に収録されている『Happy Birthday』という曲。
本書では洋楽のバースデーソングが原風景であるといかにも結論ありきの文章が踊っているが、
この曲に原風景なんて全くない。ただ単にジュディ・オングに言われてノリで作っただけである。
こんなのは当時のインタビューやオールナイトニッポンの資料を見れば一目瞭然であり、
調べもせず取材もせず適当に妄想して論理をつなぎ合わせて発表するのは一体どうなのか。
『DING DING』でも「ロリコンの歌」だとクワタ本人が当時のインタビューで断言しているのに、
印象だけでなぜか勝手に「ジャニーズの歌」と決めつけて
「トシちゃんやマッチが眼前をよぎって通り過ぎる」 (p220) と無理やりこじつけて、
「サザンとジャニーズの音楽に多くの共通項があることを示している」 (p220) で締めるという
無茶苦茶な論理展開がまかり通っている。
また社会的な考察に関しても深度が非常に浅いのが気がかりだ。
一例として『Computer Children』という曲を紹介した解説文に、
「コンピュータ中心生活に「ノー」を突きつける歌詞は、
クワタが一九八五年の時点において現代の病巣としてのネット社会を
予見していたことを示している」 (p119)
とあるが、この場合は現代的感覚で額面通りにComputer=ネット社会と受け取ってはいけない。
そもそも当時の桑田はComputerには全く興味が無く、社会的にもComputerは普及していない。
Computerとは当時流行していたファミコン以外ありえず、だから「外で遊べないComputer-Child」なのだ。
(もし仮に1985年時点でネット社会を予見していたらそれこそノーベル賞もの)
毎年同じシャケ弁当でおかずは同じだけども、佃煮だけが微妙に違う。それがサザンの魅力である。
『さくら』はカロリー過多なシャケ弁当で結果としてリスナーが痛風を起こしてしまったアルバム。
『キラーストリート』は御重に包まれたボリュームある豪華な特注シャケ御膳...
サザンオールスターズほど様々な視座から論ずることが出来るアーティストはいない。
だからこそ「洋楽」との関連性だけに魅力を押し止めた本書の編集姿勢が悔しくてならないのだ。
過度な[印象批評]に上塗りされた怒濤の全曲レビュー、あなたはどう受け止めただろうか。


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