BOOK REVIEW 7 井上薫『司法のしゃべりすぎ』

ISBN 978-4-10-610103-8司法のしゃべりすぎ
井上 薫
新潮社 2005-02-20
[新潮新書 103]

by G-Tools


「判決の理由欄に余計なこと(蛇足)は書くな」という斬新な裁判論を世に乞う一冊。

判決には主文を導く理由欄というのがあるのだが、
中には理由と呼ぶに値しないものまで理由欄に平然と記載されており、
そのことが裁判において様々な弊害を起こしている、
という厳然たる事実を著者は明晰に指摘している。

理由と呼ぶに値しない理由って一体どんな理由なのだろうか。
その前にそもそも理由の蛇足ってなんだろう。
著者は蛇足について次のように定義している。

「蛇足とは理由ではなく、元来、理由欄に書くことすら
 許されない判断ないし文章である。(中略)
 蛇足は、その存在自体、理論的な矛盾の上にあり、
 裁判所の非論理的思考の産物である」 (p124)

「蛇足を加えることは、司法の民主的コントロールを離脱し、
 国民主権の原理を否定する意味がある」 (p138)

憲法第76条にもあるように裁判官は法律に基づいて裁判をするのであり、
私見に基づいて裁判されたのではたまったもんじゃない。

法律に基づいて判決を下すわけだから、
その判決には当然の如く万人が納得できる
普遍的な「論理」が埋められていなければならない。

純粋な法理論は厳格な論理性を要求する。
そこにはロジック以外の見解が入る余地は全くなく、
入ったとしても本筋とは逸れるわけだからそれは謬見と解されてしまう。
要するに論理的に理由と呼べないから蛇足となるわけだ。

しかし裁判をこんなに機械的に処理していいものなのだろうか。
これならば極端な話、裁判官は内閣法制局で既存の法体系を
日々解析し続ける法務官僚がやればいいではないか。
機械的に事件と法律を論理的に照合するわけだから、
別に司法が独立していなくたって、その職務は果たすことが出来る。

実際にこの目で被疑者の挙動や言動を確かめ、
時には「情」というものにも耳を傾け、
そういった要素を法的に加味しながら法律に即して裁断していく。
それこそが国民と共に歩む裁判官像であり、
ただ盲目に法律や判例を追いかけていても
立ち塞がる真実が浮かび上がってくるのか、私には疑問だ。

「統治行為論」やら「プログラム規定」などという
誠に便利な法律用語に逃げて、明確な憲法判断を避け続けている
現代における「しゃべらない」司法の現状。

憲法判断はまさにこの書でいう「蛇足」になるのかもしれないが、
そういった「蛇足」が世の中を変えてきたというのも事実であり、
立法・行政への「干渉」というよりも
「干渉」とは違う磁場での問題ではないかと私は感じる。

著者が提言した「理由欄の蛇足」という概念は
確かに盲点ではあり、もっと表に出ても良いテーマだと思っている。

しかし法律に素人な私にもう少し説得力のあるデータが欲しかった。
蛇足が付く割合は具体的に全体のどれくらいを占めるのか。
海外の裁判での蛇足事情はどうなのか…

裁判について、法律について、
いろんな意味で様々な思索を巡らせてしまう一冊だ。

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